祈りは「神とのお話し」です。祈りが神とのお話しであるなら、今日の箇所はその実例となります。
1 モーセは答えた、
2 主は彼に言われた、3 すると言われた、
4 主はモーセに言われた、6 主はまた彼に言われた、7また主は言われた
10 モーセは主に言った
11 主は彼に言われた
13 すると彼は言った
14 すると・・こう言われた。
私達も神とこのぐらい親密な会話をしたいです。モーセは神と生き生きとした会話をしています。しかし、心安らかな会話ではありません。モーセにとっては残りの人生に関わることです。ここで、もしかして、神の使命を拒否したら、彼の命はここで終わったかも知れません。使命を拒否するので、生きる理由がなくなります。或いは、使命を拒否したと言う罪意識が彼を苦しめるので生きていけません。
会話の主な内容は、神が彼を説得していらっしゃるのに対して、モーセは次々と後ろ向きです。行けません。不可能です。他の人を使わしてください。このように主の命令に拒否する会話が祈りでしょうか。
祈りが神と私の心を一つに合わせていくプロセスであるなら、これも祈りです? 詩編などを見ると人生の嘆きなのか、祈りなのかよく分からないものが結構あります。生きることが大変で、人生の重荷に押しつぶされて、自然に出てくる悲鳴のような祈りがあります。神は本当に生きているのか、生きているなら、なぜ、こんなことが起きるのか
私達も生活の中、このような嘆きの祈りをするときがあります。不信仰の一言、つぶやきのため息、神に向けての恨みさえやったことはありませんか? モーセが神と話し合っている不信仰の会話、私達の生活の中でも十分あり得ることです。ですから、私達も参考にしたいです。
1.私には証しがありません。(使命を否定)
1節にモーセは答えた。「ですが、彼らは私の言うことを信じず、私の声に耳を傾けないでしょう。むしろ、『主はあなたに現れなかった』と言うでしょう。」
神がモーセに現れて、使命をくださいました。しかし、彼はエジプトに行って使命を果たすことが出来ません。神から遣わされた証拠がありません。奴隷のイスラエル民に見せられる証拠がありません。ですから、彼は「行けません」と返事しました。
「証しがない」と言い訳をするから神はモーセに証しをくださいました。モーセがとても不信仰に落ちいっているので、神は幾つかの証しをくださいました。杖が蛇になってまた、蛇が杖になる奇跡。手が重い皮膚病になって、また、治る奇跡。ナイル川の水を取って、かわいた地に注ぐと血となる奇跡も約束なさった。
神は私達を信仰の人として作り上げていく中、多くの証しをくださいます。私達の信仰が弱い理由はまだ、奇跡を見ていないからです。神からの奇跡を見ていない人は信仰が弱いことは当然です。不信仰の私を変えられるものは神の奇跡しかありません。私は信仰がない、信仰が弱いと思っておられる方は神からの証しを求めてみてください。見なくても信じる信仰が最もですが、そのような信仰者はなかなかいません。いつまで信仰の弱い信仰者でいたくはありません。「確実に信じられる証しをください」と祈ってみましょう。皆様一人一人が素晴らしい奇跡を経験できるように私も祈らせて頂きたいです。
2. 私は言葉が下手です。(能力不足)
10節モーセは主に言った。「ああ、わが主よ、私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」
40年間、荒野の生活した彼はエジプトの言葉も忘れ、毎日、羊の世話をしていました。一日に一言も話さない日もあったかも知れません。一日一言もしゃべらないと本当に言葉は出来なくなります。言葉が下手な人が他の人々の前に立って、しゃべることは本当に恐ろしいことです。しかも、エジプトの王の前で話すことは本当に行きたくない使命です。モーセの昔の知り合いもまだ宮廷にいるかも知れません。荒野に引きこもってから40年が過ぎました。ですから、モーセは神の使命を否定できる適切な言い訳を述べました。「言葉が下手なのにどうして人々の前で話せますか。」
私達が奉仕を拒否するときの言い訳は「能力がない、賜物がない」です。私は出来ません。」私達が奉仕から逃れようとするときの弁明です。ある時は、この弁明と謙遜を混乱する時でさえあります。「出来ません」と言う返事が口癖になっています。主のみ前で「出来ません」は謙遜ではありません。上手には出来ませんが、助けて下さることを信じて従いますと言うのが謙遜です。
会社では「出来ません」と言わないと思います。就職のために自分の事をアピールします。「私はあれ、これ、何も出来ません」と言う人は就職するつもりが無い人です。
ピリピ4:13「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです」
主が私を強くしてくださればいかなる境遇に置かれても、その状況を克服することが出来ます。私達は力奉仕ができなければ、教会のためにお祈りする奉仕はできます。お祈りの奉仕すらできなければ、ただ礼拝に出席だけでも大きな奉仕です。神は私達に奉仕を求める時、私達に能力があるか、ないかよりはやる気があるかをご覧になります。やる気がある人には特別な能力を後でくださいます。
3.私は駄目です。(存在を否定)
13節に「どうかほかの人を遣わしてください」
この一言にはモーセの存在そのものを否定する意味が含まれています。モーセが彼自身の人生に下した最終結論です。現在の私は何も出来ません。私の人生はこれで終わりです。モーセ自身の存在を否定しました。羊飼いしかできない彼自身の存在に失望しています。荒野で羊飼いをやっている間、彼は彼自身の存在価値を失ってしまいました。私は何の価値のないものだと言わんばかりです。神はモーセを必要としましたが、モーセ本人は存在価値を完全に失ってしまいました。
私達がこの地に生きている限り、神の栄光を表すために、神は私達を必要となさいます。神が私達を必要としているのに、私達が神に「ほかの適切な人を探してみてください」と言うと神は怒られます。
マザーテレサがこのようにおっしゃったそうです。「この世の中で最も大きな病は誰にも必要とされないこと」
イエス様はペテロを必要とした。「人間をとる漁師にしてあげよう」
イエス様は現在の漁師であるペテロの未来価値を評価してくださいました。神は私を必要としていますが、これが福音です。無価値である私を一番尊いところで用いてくださること、用いられる身分を与えてくださること、これが福音です。
神の栄光を表すところに私が本当にそんな価値があるか、ないかを決められるお方は私達をお造りになり、救ってくださったお方です。人間が勝手に自分たちの価値を決められるものではありません。私達の価値は神によって決められるものです。
私の価値に自ら点数を付けると何点取れると思いますか? 家族にはかけがえのない重要存在です。
友達にも重要(存在そのものが重要)
教会にも重要
会社で私の価値は利用価値があるか、どうかで判断されます。
私の価値に点数を付けるとその点数はそんなに高くありません。「私は駄目です」と言う点数しかありません。私の価値に最も高い点数を付けて下さる方は私達をお造りになった天の神です。 天地より尊い価値を付けて下さいます。
私達は神に毎日祈りますが、モーセのように祈りやすい人です。「私には証がありません。能力がありません。駄目な人間です」。このような祈りでしたら、或いは生活の中でこのように話しをしていましたなら、これからは反対に祈ってみましょうか。
「神様、私に確実な証しを見せてください」
「神の使命を忠実に果たせる能力をください」 「私の存在価値を教えてください。そして、その価値あるところに用いてください」。
