<罪による変化> 創世記3:7~19 2026年8月16日

 罪は抽象名詞ではなくて、生きているもので、成長する生き物です。ですから、最初は小さいので、何も変化を感じられませんが、時間が経つと変化が現れます。善悪の知識の木に関して人々が質問することが一つあります。「果物たった一つ食べたからと言って、なぜそんなに神は怒るのか」。「しかも、罰がアダムだけではなく、全人類にまで及ぶ」。

 それを見ると神は厳しすぎるお方だ。旧約の神は厳しいお方、新約のイエス様は愛のお方。分けて考えますが、それは間違いです。三位一体の神を旧約と新約に分けて考えること自体が間違いです。罪の深刻さを分かっていないからだと思います。

 アダムは全地の被造物の代表者です。特別な権限、自由、権利とともに何があったら、最後の責任者です。人々はエバの罪と呼ばないで、アダムの罪と呼んでいます。木の実を最初に食べたのはエバですが、それでも、責任者はアダムです。アダムも実はエバのそばにいました。アダムの罪は単純なミスとか、好奇心ではありません。地上の王様の権限がある者が天上の大王である神を真正面から逆らう反逆罪です。アダムが天上の神になろうとしたことです。反逆罪は死刑しかありません。

 彼らは知らないまま、蛇に騙されたよりは、食べてみたかったです。神になってみたかったです。神になるとどうなるとかやってみたかったです。被造物であることを否定する考えです。

 善悪の知識の木の実は創造主神と被造物の人間を区分する唯一の区分です。その区分さえなければ、アダムも神になるのだとそそのかしたのは蛇であり、サタンです。しかし、その木の実を食べるとこれ以上アダムは地上の王のような存在ではなく、単なる土の一握りに過ぎないものです。体も弱く、心も弱く、知恵もない愚かなものにすぎません。罪は目に見えないものですが、罪による変化は目に見えるものです。神の離れると起こる現象がありますが、罪の後どんな変化があったのか見ましょう。

1.恥ずかしくなりました。

7節「ふたりの目は開かれ、自分たちが裸であることを知った。」

今まで二人は恥ずかしくなったことはなかったのに、なぜか恥ずかしくなりました。恥じを知る者になりました。恥ずかしいことが分かりました。5節でアダムの目が開きました。アダムは目が開かれ、悪を知りましたが、善を行う能力を失いました。悪を退ける能力も失いました。神であるかのようなふりをする、偽りのものになりました。

 聖書が禁止していることを素直に従うよりは、逆らうものとなりました。聖書の教えを素直に受け入れないのは心に傲慢があるからです。神が厳しく禁止しても、勝手に大丈夫だと言います。自分が神になっているからです。親が厳しく禁じていても、違うと否定するものとなりました。

2.神をさけるようになりました。

8節「・・神である主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。」

神との親しい関係が終わって、神を恐れるようになりました。今までは神の歩まれる音を聞いたら、直ぐ現れ返事したのに、今は隠れるようになりました。

 ママが呼んでいるのに幼稚園生の返事が遅いのは何か悪いことをしている証拠です。人間は誰でも悪いことをする瞬間、恐れを感じます。罪を犯す前から恐れを感じます。小さい子どもでも悪いことをすると本能的に隠れます。人との関係が悪くなると顔を避けるようになります。心が離れると顔を避けるようになります。

3.誰のせいにする責任逃れ。

12節「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」

あの女のせいで、あの女を造った神のせいで食べましたと返事しました。アダムは今まで全地を治める格好いい男でした。しかし、罪の後は愛する妻のせいにして、神の責めから逃れようとする卑怯な者と変わりました。

4.人間関係の崩壊

 アダムとエバは愛する関係でした。「私の骨からの骨、私の肉からの肉」と愛を告白した関係でした。罪の後は「あの女のせいで」に変わりました。二人の関係が離れました。罪の後、人間関係は壊れてしまいました。神との関係、人との関係、自然との関係が崩壊されてしまいました。

5.嘘をつくようになる。

「蛇が私を惑わしたのです。」

蛇に騙されて善悪の知識の実を食べたことは一部分正しいです。しかし、厳密に言えば、エバは彼女自身を騙しました。また、彼女自身に騙されたと言った方が正しいと思います。蛇に騙された部分もありますが、どうしても食べてみたかったわけです。どうしても食べてみたかったとはあえて言わないです。エバは彼女自身のことを自己弁護してアピールしています。自己弁護の中に偽りの嘘を隠しています。

 エバの罪を私たちも受け継いで、今は本当に巧妙な罪を犯しています。自分にとって有利なことは積極に言い訳しますが、不利なことは一切言いません。その方法で責任から逃れようとします。それを続けると良心が麻痺して、ひどくなると自分自身を騙す人になります。

6.罪の変異と発展

 アダムの罪はいろいろの形で、さまざまな模様に変異しました。また、大きくなっていくばかりです。一つの罪はいろいろの形に変異して、小さい罪が大きな罪を生み出します。ですから、一度の罪は自然に解決されるのではなくて、ますます他の形に大きくなっていきます。

7.罰にまさる神の憐れみ

 今まで申し上げた罪の結果は私たちには重荷です。なぜ、罪が子孫に遺伝したのかは分かりません。アダムの罪がなぜ、私の罪になったのか、悔しいです。理由は分かりませんが、アダムにありました罪の現象が私達にもあることは事実です。罪の結果、残ったのは惨めなものしかありません。残ったのは「土のちりに帰る」ことしかありません。早く死ぬのが唯一の慰めです。罪を犯しているのに寿命が長いともっと多くの罪が増えるだけです。ですから、神は彼らをエデンの園から追い出して命の木の実を食べられないようにしました。

 しかし、死んでも罰は終わりません。生きていても、死んでも何の希望もなく、慰めもなく、ただ罪の重みを背負って行く私たちを神は憐れんで下さいました。

 エバへの罰を見ると「苦しみとうめきを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む」です。女性は「産みの苦しみ」に嘆きますが、実は「子を産む」に希望があります。罰の中に未来への希望があります。

 アダムへの罰を見ると「あなたは一生の間、苦しんでそこから食を得る」です。男性は「一生の間、苦しんで」に嘆きますが、実は「食を得る」に希望があります。神は罰の中にも生きる道を備えて下さいました。

 そして、罪から私たちを救ってくださる救い主をくださると約束しました。15節「彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ」。メシアが来られると人々を罪から救ってくださいます。壊れた神との関係、壊れた人間関係が回復します。土に帰るとき、天国の安息があります。私達にイエス様が必要です。

 アダムの罪の後、人間はすべてを失いましたが、しかし、イエス様を信じることで、すべてを回復し、それ以上のものをいただきました。私たちはイエス様を信じることで神の子どもになりました。 イエス様を信じることで、私たちはアダムが失ったものよりもはるかに大きなものをいただきます。