祈りは一人の人間が神と生涯一緒に歩んだ人生の物語です。その人の最後の祈りは遺言のようなものです。祈りを遺言として残しますが、それは信仰の遺産であり、信仰の証しです。私たちは信仰の遺産を次世代に残したいです。次の世代を祝福することは本当に美しい伝統です。聖書にもその例がたくさんあります。ヤコブの祝福、ヨセフの祝福、モーセの祝福、イエス様も赤ちゃんのとき、シメオンに祝福の祈りをしてもらいました。
祈りを通して私たちは次の世代と霊的につながります。イスラエルの民は「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という祈りを通して次の世代につなげました。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」はこれから私の神です。信仰の先祖たちの神だけでなく、私の神です。今日の箇所でヤコブが息子ヨセフと二人の孫のために祈りました。ヤコブは遺言の祈りを通して世代と世代をつなげています。
1.一生の証し
ヤコブがささげた祈りは彼の生涯の証しです。その証しは一言で言うと神からの祝福です。ヤコブは息子と孫に彼が今まで信じて、仕えてきた神を紹介しました。神は全能のお方、不可能な事なく、約束なさったことは必ず成就なさる全能の神です。全能の神が約束なさったことが、これから少しずつ成就されて行きます。神がヤコブに約束なさった内容は三つです。
1)祝福をくださる
2)多くの子を得させ、ふやし、多くの国民とする
3)カナン地を後の子孫に与えて永久に所有させる
1)祝福をくださるということをもう少し詳しく考えてみると、ヤコブは神の祝福を信じて今まで頑張りました。彼の生涯を見ると祝福されたと言えますでしょうか、祝福されたと言えませんか? 彼は若いとき、神の祝福をいただこうと思って兄を騙し、父も騙したので愛するお母さんと一緒に暮らせなくなりました。おじさんの家に住んだ時眠れないほど働きましたが、おじさんに騙される日々でした。妻も四人で、子ども達も互いに関係が悪いです。子ども達に騙されることも多くありました。子どものことで心を痛めることも多くありました。一番愛していたヨセフは13年以上死んでいたと思い込んでいました。約束のカナン地はまだ彼のものではありません。現在はカナン地に飢饉がひどいので、暮らせなくてエジプトに避難生活をしています。とうとう、年老いて天国に帰る日を待っているだけです。この世の価値観からみればこのような生き方を祝福と言えますか?
しかし、ヤコブ本人は神から祝福された生涯だと確信しています。なぜなら、彼が頂いた祝福を子孫に残したいと思っているからです。彼にくださった祝福を子孫にもくださいと神に切に願い求めているからです。今日の箇所に彼が祝福という言葉を何回か使いました。
9節「彼らを祝福しよう」
16節「この子どもたちを祝福してくださいますように」
20節「彼らを祝福して」
本人が神から大きな祝福をいただいたという確信がないと子孫に主の御名によって祝福することが出来ません。祝福の祈りは信仰の確信が無いとできません。私達の人生はいかがでしょうか? 自ら振り返ってみて神から祝福をいただいているのか、どうか。他の人が私を見てあなたは祝福されたという評価はあまり意味がありません。本人、自らの評価が大事です。自ら判断してみて「私は神に祝福された」と判断すると祈りの内容も、信仰生活も変わってきます。神の祝福をたくさん頂いたと考える人は感謝があふれるでしょう。神をもっと愛するでしょう。神の為に犠牲を払うことを惜しみません。
2)多くの子孫の約束はもうまもなく成就される見込みです。ヤコブが父の家を離れる時は一人でしたが、今は約70名の大家族になりました。もうすぐ大きな民族になります。
3)カナン地を得ることはもうしばらく待たないといけません。21節を見ると「・・神はおまえたちとともにおられ、おまえたちを先祖の地に帰してくださる」
ヤコブが今まで信じて、仕えてきた神、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」を証ししました。そして、その神が、これからは次の世代を助けてくださって、孫たちの神になってくださることを切に願い求めています。ヤコブを今まで守ってくださったその神が、これからはこの息子と孫たちの神になってくださって彼らを守ってください、助けてくださいと祈っています。
16節「すべてのわざわいから私を贖われた御使いが、/この子どもたちを祝福してくださいますように。私の名が先祖アブラハムとイサクの名とともに、/彼らのうちに受け継がれますように。/また、彼らが地のただ中で豊かに増えますように。」
私もヤコブのような心境です。信徒の皆様に、子ども達の皆様に、自分が信じていた神を紹介したいです。そして、自分がささげた祈りを皆様にも受け継いで頂きたいです。自分自身が信じていたその神が、これからは皆様の神となりますように。
子どもの皆様、今までは親の信仰に導かれて教会に来ました。親の信仰によって教会に来ました。親の信仰に基づいて祈りました。親の信仰に倣って奉仕しました。親の世代の祈りのおかげで、祝福を頂きました。
しかし、これからは親の世代の信仰だけで生きていってはいけません。結局は私の信仰で暮らさないといけません。私の神が私に祝福をくださいますように。我が全能の神が数え切れないほどの奇跡を通して私を助けてくださいますように。全能の神として私に現れてくださいますように。親を通してくださった約束が、これからは私に成就されますように。これからは私の祈りにも答えてくださいますように。私にも生々しい信仰の証しをくださいまして、これから私も次の世代に生々しい信仰の証しが出来るようにしてくださいと祈りましょう。
若い世代の皆様。これから霊的な面において親離れをしないといけない時間になりました。自ら霊的な自立が出来ますように。
愛する年配の皆様。これから霊的な面において子離れしないといけない時間になりました。子どもが自ら霊的に自立出来るように。
2.信仰教育
ヤコブの祈りには信仰教育という意味もあります。今日の箇所でヤコブとヨセフ、そして、二人の孫が一つのところに集まっています。三世代が祈りを通して神のみ前に集まりました。ヤコブは二つの面で信仰教育をしています。教育の内容は今までの神の約束です。具体的には神が「カナン地をくださる」という約束です。教育の対象は子ども世代のヨセフと孫世代の二人です。お祖父さんが孫たちに信仰の教育をやっています。その隣で、お父さんがそれを見守っています。教育の内容に関してはお父さんのヨセフもすでに子どもの時から知っている内容です。カナン地をくださる約束はすでに知っている内容です。今度はそれを次の世代に教える教育方法をここで学んでいます。
信仰教育は3世代が一つのところに集まって行います。孫はお祖父さんを通して信仰の内容を学びます。お祖父さんは約束の内容は孫に教えます。同時に、教える方法は息子に教えます。
過ぎ超しの祭りの伝統をイスラエルの民はこのやり方で守りました。現代の家庭は3世代が集まって教育することが出来なくなりました。お父さんの世代は何を教えるべきかよくわかりません。教える内容もよく分からなく、教える方法もよく分かりません。教える方法は多くの経験と体験、試行錯誤を通して確信から生まれますが、現代の家庭はその確信あるお祖父さんがいないので、お父さんが内容だけ教えています。現代の家庭では3世代が一緒に生活しないので3世代の教育は無くなりました。しかし、それでも、教会はいつまでも信仰の3世代が一つのところに集まっています
3.預言
ヤコブの祈りは預言の祈りでした。ヨセフはヤコブに祈ってもらうため二人の息子の手を握ってヤコブの前に立ちました。ヤコブがまっすぐに手を伸ばして祝福すればヤコブの右の手が長男の頭に、左の手が次男の頭にいくようにしました。しかし、ヤコブが手を交差して祝福しようとしました。手を交差すると兄と弟の祝福が変わってしまいます。ヨセフはそれを変えようとしましたが、しかし、ヤコブはわざをそうしました。肉体の目は見えませんが、深い信仰と人生の経験に基づいてわざと下の子をもっと祝福しました。19節「しかし、父は拒んで言った、「分かっている。わが子よ。私には分かっている。彼もまた、一つの民となり、また大いなる者となるであろう。しかし、弟は彼よりも大きくなり、その子孫は国々に満ちるほどになるであろう。」
ヤコフは長い人生の経験と神がくださった約束と霊感に基づいて、二人の孫の将来の為に預言のような祈りをしました。そして、その通りになりました。神が年老いた信者にくださった特権であり、賜物です。長い人生の経験と神の賜物が一つになるとき、若い人の将来がある程度、見えるのではないかと思います。それを祈りました。祈っている人はそれが成就することを見ることは出来ません。まさに信仰による純粋な祝福の願いです。
結論
私達の最後の祈りは何でしょうか? 私達の最後の遺言の祈りを何にするか考えたことがあります。まだ、長い時間が残っているので、考えていないかも知れません。正直、自分もまだ考えていません。ですから、何にしようかとこれから祈ってみることにしました。祈りが神と自分が歩んできた生涯の物語であるなら、結論を何にするか、とても大事なことだと思いました。結論が無いまま終わると面白くないなと思います。結論がつまらないと全体的につまらなくなると思います。物語の最後の輝くフィナーレが必要です。
