<ギデオンと祈り> 士師記6:33~40 2026年8月30日

 祈りは神と私の人生の物語だと言っても良いのではないかと思います。今日はギデオンですが、ギデオンの祈りに彼の人生の物語があります。彼だけでなく、彼が生きていた時代の雰囲気、背景、その時代の状況を反映します。彼の祈りから私達はその時代の雰囲気を見ることが出来ます。今日はギデオン時代を中心に考えますが、おまけにヨシュア時代と比べながら祈りに関して考えたいと思います。ヨシュアの時代とギデオンの時代は随分違います。

1.しるしを求める

37節「・・私は刈り取った一匹分の羊の毛を打ち場に置きます。もしその羊の毛だけに露が降りていて、土全体が乾いていたら・・」

39「私にもう一度だけ言わせてください。どうか、この羊の毛でもう一度だけ試みさせてください。今度はこの羊の毛だけが乾いていて、土全体には露が降りるようにしてください。」

 彼は既に幾つかのしるしを見ましたが、まだ、確信が無かったので神に別のしるしを求めました。そのしるしはとても単純なものでした。彼はこの小さいしるしを通して神が本当に彼と共におられ、助けて下さる事を信じて安心しました。彼の信仰はこの小さい奇跡から成長しました。彼はその後、信仰が大きくなってわずか300人を率いて、イスラエルを救うみわざを経験したわけです。

 信仰の器は少しずつ大きくなっていきます。信仰を受け入れた人が最初から大きな信仰者になることはありません。信仰は少しずつ成長します。信仰は神との信頼関係が深まることです。みことばと祈りを通して主との毎日の交わりを通して、少しずつ関係が深くなり、信仰が大きくなります。信仰が大きくならないと大きなみわざを求めることも出来ません。士師記時代の人々は神との交わりも無く、みわざも、まぼろしもない時代でした。

 6:13ギデオンは御使いに言った。「ああ、主よ。もし主が私たちとともにおられるなら、なぜこれらすべてのことが、私たちに起こったのですか。『主は私たちをエジプトから上らせたではないか』と言って、先祖が伝えたあの驚くべきみわざはみな、どこにあるのですか。今、主は私たちを捨てて、ミディアン人の手に渡されたのです。」

 ギデオン時代の人々は神の奇跡を一度も見たことがなく、神の声を一回も聞いたことがありません。士師記時代の人々にとって出エジプトの奇跡は昔々の伝説です。彼らの祈りは個人の平安を求めるのが主な祈りでした。ギデオンは密かに隠れて、ミディアン人にばれないように、どきどきしていた人です。

 彼らとヨシュアの時代を比べてみると士師記時代の人々は信仰もなく、祈りの課題も素朴なものばかりでした。ギデオン時代の人々と違ってヨシュアは素晴らしい信仰の時代を暮らした人です。ヨシュアは素晴らしい信仰を持っていました。今まで聞いた事もない祈りを神に捧ささました。ヨシュアは戦争の時、太陽が留まるように祈りました。

 ヨシュアも最初からここまで祈れる人だったわけではありません。若い時から神の数多い超自然的な奇跡を体験した信仰の蓄積です。出エジプトの時の神がエジプトに下した10の災いを目撃しました。二つに分かれた海を渡りました。シナイ山で神の臨在の雲を見て、響きを聞きました。40年間マナを食べました。荒野で岩から流れる奇跡の水を飲みました。エリコの城壁が崩れ落ちる光景を見ました。ヨシュアもギデオンのように小さいことを求める祈りから始めました。

 また、時代の霊的な状態も随分違いまして、ヨシュア時代の人々は平気でこのような祈りが出来ました。ヨシュアの時代の人々は奇跡が日常生活のようにありました。環境は荒野での辛いところでしたが、霊的には奇跡を毎日体験する素晴らしい時代でした。

 しかし、ギデオンの時代の人々は小さい奇跡すら求めることが出来ませんでした。ギデオンの時代の人々はカナン地に定着して平和の暮らしを続ける中、神を忘れてしまいました。ギデオンの家にバアルの偶像があるぐらいでした。ギデオンの時代は霊的な感覚を失って、信仰が小さくなって、祈りもしませんでした。

 今日、私達の時代も神に求める祈りの内容が、大体個人の祈りばかりです。私達もヨシュアの時代の人々のように平気で奇跡を求められる時代を暮らしたいです。私たちもヨシュアのように平気で奇跡を求められる信仰者になりたいです。私達もギデオンのように小さい祈りから始めましょうか。

2.しるしを二回求める

 39「私にもう一度だけ言わせてください。どうか、この羊の毛でもう一度だけ試みさせてください。今度はこの羊の毛だけが乾いていて、土全体には露が降りるようにしてください。」
ギデオンは二回連続してしるしを求めました。奇跡が一回だけならそれは偶然かも知れません。奇跡を未信者の友達に証しすると「それは偶然だよ!」と言います。一回だけなら、確かにそれは偶然かも知れません。偶然なのか、神様のみわざなのか分かりません。

 しかし、それが連続して二回続くものなら、それは偶然ではありません。それは神の手によるみわざです。私達に答えられた祈りは何回でしょうか? 私達が確信を持って神の存在を信じている理由は、数え切れないほどの祈りの答えがあったからです。祈りの応答が私達の人生の物語としたいです。

 今、私達の世代は頭と知識だけの信仰ではないかと思います。ギデオンも神のみ使いが現れるまでは頭と知識だけの信仰者でした。出エジプトの神は先祖から聞いていたので知識はあります。しかし、その神を個人的に経験したことがありませんでした。神に関して、先祖から聞いて、頭では出エジプトの物語を信じています。しかし、神の御手による明確なみわざはまだ経験していません。私達はいかがでしょうか、私達の現在の信仰状態は。

3.しるしと使命

 ギデオンには使命がありました。イスラエルをミディアンから救い出す使命でした。彼にはもう一つの使命がありまして、イスラエルの民をバアルの偶像から救い出す使命もありました。ミディアンは外部からの問題、バアルの偶像は内部の問題です。ギデオンには外部も、内部も対立する反対勢力ばかりでした。

 使命が与えられると緊張します。それは霊的な緊張です。主の使命を果たすためには緊張しないといけません。その緊張は集中力を高めますので、良い結果となります。

 普段は個人の為には心を込めて切実に祈りますが、教会の公の祈りにはなかなか、心を込めて祈ることが出来ません。なぜなら、教会の祈りの課題と私個人の祈りとあまり繋がりがないからです。教会と私個人の課題と関連性がないと心込めた涙の祈りはありません。

 しかし、神は個人の祈りと、教会の為の祈りとを一つに結んで下さる時があります。一つの運命として結んで下さいます。ギデオンがそうでした。神のみ使いに出あうまで彼の願いは何とかして収穫したものをミディアン人に奪われないことばかり考え、それだけの祈りでした。その祈りの時、神の使命が与えられました。個人の財産を守る人から皆の財産をミディアンから守る人に変わりました。イスラエルを敵から救い、守りなさい。ギデオンにとっては今までは個人の財産を守ることとイスラエルの民の財産を守ることが別々でした。

 ミディアンから自由になることをイスラエルの民は祈ったことは祈りましたが、個人の祈りと別々になっていました。しかし、神が使命をくださることによって二つは一つの同じ目標になりました。

 個人の財産を守ることが民の財産を守ることだし、民の財産を守ることが、結局彼の財産を守ることになりました。神が二つのことを一つにしてくださいました。イスラエルの民の財産が守られることなしにギデオンの財産が守られることはありません。私の個人の祈りと、教会の共同の祈りが同じだと感じたとき、私達は真剣に心を込めて、教会の為に祈ることが出来ます。また、私達にくださった教会の為の使命を全うする事が出来ます。また、その使命が全う出来るように神は奇跡を見せてくださいます。神からの使命を忠実に果たそうとする人々に神からのしるしが与えられます。しかし、神からの使命を拒否するとしるしもありません。

結論

 ギデオンの時代とヨシュアの時代は霊的な環境が違いました。私達が暮らしている時代と地域はヨシュアの時代よりはギデオンの時代に似ています。祈り課題も個人の平安と祝福を求める祈りが多いです。祈りはささげますが、答えられる確信はありません。神からのみわざもあまり体験していません。

 しかし、私達は時代のせい、地域のせいにはしたくありません。なぜなら、あれほど奇跡が日常生活のようにあったヨシュアの時代も不信仰の人は沢山いました。そして、あれほど神の奇跡がめったにないギデオンの時代も、神の奇跡を経験した少数の人々はいました。私達の時代はそんなに奇跡が頻繁にある時代でもないし、私達の地域も奇跡が頻繁にある地域ではありません。しかし、今も奇跡が多い地域でも、奇跡を体験していないクリスチャンがいます。反対に日本でも少数ですが、神の奇跡を経験する人がいます。私達は正しい信仰の上に立って、使命を全うする人として、素晴らしい奇跡を体験するクリスチャンになりたいです。

 未信者の世界で、奇跡は滅多にありません。しかし、クリスチャンの世界では奇跡が無いことが珍しいです。私は霊的に難しいと言われているこの地で、神の奇跡のみわざを体験したいです。皆様もご一緒にいかがでしょうか?