<ヤベツの切実な祈り> 歴代誌第一4:9~10 2026年4月26日

 チャンスが一回しかない時とチャンスが二回ある時との集中力を比べると言うまでも無く、チャンスが一回しかない時です。その理由は切実さが違うからです。ラストチャンスになると集中力が高まります。命がかかっている時はもっと集中力が高まります。運命をかけてのチャレンジになると集中力はすごいです。これが祈りであれば神様に答えられる確率が高くなります。これが人間の願いであるなら叶えられる確率が高くなります。

 自分自身の人生を振り替えてみるとチャンスが一度しかない時が多かったと思います。その中、集中してそのチャンスを生かした生き方でした。皆様は人生の中、一番集中して、切実になったことは何でしょうか? 今日は切実さに関して考えたいと思います。

 旧約聖書にヤベツと言う人がいました。彼は兄弟たちの中で重んじられていました。その理由を予測すると体が弱かったからではないかなと思います。弱さを持っている兄弟を家族は特別な扱いをします。彼が生まれる時、母は命かけの痛み、苦しみがあったのかなと推測します。その痛みでヤベツにも大きな影響があったのではないかと推測します。その痛みがヤベツにも残っていたので、子どもの名前をヤベツと付けました。ヤベツの母は忘れられない苦労をしました。ヤベツの名前の意味は苦痛、悲しみです。彼は生まれた時から運命が痛みでした。ヤベツはこのまま、時間が経つと彼の運命は名前通り、苦しみ、痛みで終わる可能性が高いです。

 彼の未来が痛みになる条件がいろいろそろっています。兄弟が重んじるくらい哀れな何かを持っていて、それが身体の弱点なのか、精神的な弱さなのか、名前すら痛みであって、彼の幸せを妨げるものばかりです。家族も彼を重んじる以外には何にも助けることができません。いくら家族でもそれぞれの人生を生きていて、それぞれの運命を担っています。  

 親でさえ子どもの運命を代わりに背負うことはできません。親でさえ子どもの運命を変えることはできません。ヤベツの母が子どもの名前をヤベツと付けないで、幸せと付けたらヤベツの未来は自然に幸せになるのでしょうか? ヤベツの運命は母が子どもの名前をヤベツと付けたからではありません。このような運命の中、ヤベツは何を、どうすれば良いでしょうか?

1.ヤベツ自身の運命をありのまま受け入れること

 痛みの中、人生が始まった事実をそのまま受け入れることです。運命を受け入れることは簡単ではありません。誰かのせいにしたくなります。悔しさがいっぱいで素直に受け入れられません。しかし、誰のせいにしても悔しさは少し減るだけです。彼の人生、前半は苦しみからスタートするしかありません。人生のスタート地点は誰も変えられません。人生のスタート地点は誰も本人が決めたのではありません。親が決めたことでもありません。人生のスタート地点は最初から与えられているもので、選択肢がありません。有利な人もいれば、不利な人もいます。けれども、運命は人生前半で決まるのではなくて、後半で決まります。生きている間、途中、人生は変わります。ヤベツは運命を変えるために祈りました。主なる神の全能の力によって運命は変わります。ヤベツは主なる神に祈りました。その祈りが彼の後半の人生を変えました。結論は彼の運命が本当に変わりました。

2.主なる神に切実に祈り求めること

 ヤベツは主なる神に切実に祈り求めました。一回、二回の祈りではなかったと思います。渾身の力を込めて、切実に何度も祈ったと思います。切実な祈りが私たちの未来を新しく変えます。運命も変わります。人生前半とは全然違う結果になります。

 ヤベツは主なる神に大いなる祝福と地境の拡大、わざわいがなくなるように、痛みが無くなるように祈りました。主なる神はこれらの切なる願いを全部聞いてくださいました。ヤベツの祈りを聞いてくださいました主なる神は私たちの祈りにも応えてくださいますが、皆様は何を切実に祈り求めていますか?

3.私たちはどのくらい切実なのか。

 今日は祈りも祈りですが、切実さに関して申し上げようと思います。東京教会はどのくらい切実でしょうか? まきばの皆様は未来に関してどのくらい切実でしょうか? 親が大体やってくれるので、あまりそこまでは切実ではありませんか? 先日の朴先生にも尋ねてみました。「先生はどのくらい切実ですか。」

 皆様の目には、楊先生はどのくらい切実に見えますか? 皆様が切実になっていただくために自分のことでも、参考になったら良いなと思いまいまして、自分のことをお話させて頂きます。

 教会の運命も、個人の運命も人間が変えられるものではありません。主なる神が変えてくださいます。ただし、どのくらい切実なのかによって決まります。切実な人に神の奇跡があります。切実な人の運命は変わります。運命は決まっているのではなく、神の助けと導きによって変わります。キリスト教はどうにもならない運命論ではありません。神を信じる信仰と祈りによって、神の助けと祝福によって未来を切り開くことです。

 ヤベツの前半は痛みからスタートしました。私たちの前半も痛みからスタートしました。教会の前半は教団から支援を受ける教会からスタートしました。支援は未だに続いています。楊師の前半は受ける人生でした。誰も助けてくれる人がいないので、受けるしかありませんでした。

 しかし、私達にはまだ、後半が残っています。ヤベツには後半の10節が残っていました。ヤベスは切実な祈りをささげ、人生逆転しました。単なる祈りではなく、命をかけた、運命をかけた、未来をかけた切実な祈りをささげました。その切実な祈りを主なる神が聞いてくださいまして、ヤベツの運命を変えてくださいました。私たちも切実な祈りをささげると主なる神が私たちの未来を変えてくださいます。

4.二種類の切実さ

 私達の中にある欲望は私達を切実にします。甲子園野球に参加した選手たち、受験生、愛する恋人、親の切実さ、彼らの切実さはすごいです。命をかけてでも、すべてをかけて切実になるものがあります。皆様にも切実な何かがあるでしょう。 信仰者にも切実さがあります。それでは人の欲による切実さと信仰者の切実さと何がどう違うのでしょうか? 人の欲から生まれた切実さはどうしても諦められません。信仰者の切実さは主のために切実であったので、反対に主のためなら、いくら切実なものであっても、諦めることもありです。どうしても、神の御心ではないと判断されたら、切実であっても途中で諦めます。人の欲が、人の切実さが偶像になったら、良い結果になりません。私は信徒の皆様一人一人が切実に求める信仰者になって頂きたいです。そして、その切実さは神から生まれた聖なる者であるように祈りたいです。