パリサイ人とサドカイ人はイエス様にメシアである証拠を求めました(16章1-4節)。メシアであるなら天からのしるしを見せなさいということです。
これに関してイエス様は弟子達にあなた方は私をメシアだと信じていますかと言う意味で「あなたがたはわたしをだれと言うか」と質問しました(13-20節)
その質問にペテロは「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と告白しました。新約聖書で「キリスト、メシア、神の子」は全部同じくイエスキリストを意味します。ペテロはイエス様を神の子だと告白しました。ペテロが神の子だと告白した理由は数多くのしるしを見たからだと思います。特にマタイ15:32-39の七つのパンと小さな魚から四千人が食べた奇跡を見たからでしょう? また、今までイエス様の権威ある教えに感動したからだと思います。とにかくペテロは信仰を告白しました。ペテロの信仰告白がありましたので、イエス様も弟子達に十字架の預言をなさいました。
イエス様は私達にも質問します。「あなたは私を誰と言うか?」私達は既にイエス様をメシアだと告白しました。私達はなぜ、イエス様をメシアだと告白しましたか? イエス様こそ、メシアだと告白できた決定的な救いの証がありますか?
信仰を告白するとその瞬間から十字架が与えられます。ペテロと弟子たちに十字架が与えられました。21節の「その時から」、ペテロの信仰告白後、イエス様は弟子達に十字架を予告しました。そして、各自の十字架も命じられました。信仰告白と十字架は離すことが出来ないものです。
イエス様はご自分がメシアであることを証明しました。パリサイ人とサドカイ人が望んでいた天からのしるしでもなければ、弟子達が望んでいたローマを滅ぼすことでもありませんでした。十字架で死ぬことで、メシアであることを証明しました。十字架を背負うことによってご自分がメシアであることを証明しました。イエス様は全知全能の神様でありながら、他の証明方法もたくさんあるのに、こともあろうに無力な十字架の方法で証明しました。奇跡はメシアであることを証明する決定的なものではありません。
新約聖書にイエス様の奇跡が沢山記されていますが、実際、福音書全体を100だとすると奇跡が占める割合はそんなに多くありません。ヨハネの福音書は特に少なくて、7つしかありません。イエス様がメシアであることを証明するのに奇跡はあまり効果がありませんでした。奇跡は逆効果がありました。死んでいたナザロが生き返る奇跡を目の当たりにした宗教指導者たちはイエス様を殺そうと決心しました。
主は私達にも十字架の方法によって信仰告白を証明しなさいと教えています。私達の生活においてイエス様がメシアであることを証明する方法は各自の十字架を背負うことです。私達はもっと華麗な方法である奇跡を通して、私達の信仰を現したいのですが、主は他ではなく十字架を要求します。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」今日の箇所の中で主に24節を中心に考えたいです。
1.「自分を捨てなさい」
24節でイエス様は弟子達に「わたしについてきたいと思うなら、自分を捨て」なさいと命じられました。自分を捨てる意味は自分のことを知らないと否定することです。ペテロがイエス様を「知らない」と否定したことばです。(マタイ26:75)
迫害の時代にイエス様を知っていると告白すると殉教を覚悟しないといけません。反対にイエス様を知らないと否定すると再臨の時、主から「あなたを知らない」と言われます。どっちを選んでも正に私達の運命に関わる言葉です。イエス様を知らないと言う否定はイエス様と全然関係ありませんという宣言です。
それでは、自分を捨て、否定して、自分を知らないと否定することは具体的に何でしょうか? 自分中心の声に従わないと言う決心です。私達は皆、心の声に従って行動しています。心が全てを指示します。私達は一日生活の全ての行動は心の指示によって行われています。私の心はこのように数え切れないほど指示します。各自の心が利益損害を計算しながら指示します。
ところが、この心というのはエレミヤ書17:9に書いてある通り、「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒しがたい。だれがそれを知り尽くすことができるだろうか。」
欲望の声に聞き従う生活が続きますといつか代価があります。自分を捨てること、否定することは、心の欲望の指示に従って行動することを全部一旦停止することです。私の考え、私の計画、私の価値観などを一旦停止することです。そして、神様のみことばからもう一度考えて、判断して、神様のみことばに基づいて、新しく指示することです。
心にある欲望の指示を拒むことは非常に難しいことです。欲の指示に従わないことは全然慣れてないことです。主のみことばに聞き従うことは正直に不安です。主のみことばに従って決めるときっと損をする、私だけ損をするのではないか。なぜ、自分だけ我慢しないといけないのか。待つばかりは嫌だと言う焦りが心を揺さぶります。
イエス様を信じたばかりの方には心の葛藤が多いです。私だちの心はこの世の価値観に慣れています。聖書のみことばと異なるときが結構あります。現在、私達は心の声に知らないと宣言できますか? 反対に、聖書のみことばに知らないと宣言していますか? 私達は日常生活で小さいことでも、主に伺う習慣を身につけると信仰は成長します。日々、自分を捨てることを重ねて行くと主に従うことができるようになります。
2.自分の十字架を負いなさい
1)誰にもある十字架
イエス様の時代、十字架と言う単語は最も気持ち悪い言葉だったと思います。この言葉を聞いたら一日気持ち悪かったと思います。イエス様の十字架の預言後、弟子達の頭から何日間も響きました。それなのに、イエス様は「十字架を負うて従いなさい」とおっしゃいました。イエス様に従っていくことすら確信がないのに、最も気持ち悪い言葉である十字架を背負って従いなさいと言われたので、弟子達には相当の衝撃がありました。弟子達の脳裏と心に深く刻まれ、忘れることが出来ない教えになりました。
十字架という物は何でしょうか? 私が選択できる物ではありません。神様から与えられる物です。十字架は神様が私だけ与えて下さった私の人生そのものではないかと思います。私達がイエス様を信じる人なら、私達各自に十字架があります。信仰告白と共に与えられます。具体的な物もありますし、抽象的な物もあります。私の人生そのものだと言った方が一番無難ではないかと思います。一生ついてくる物だからです。
2)避けられない物
自分の十字架は避けられない物です。主を信じる人には誰にもあります。十字架から逃れようとすることは「神のことを思わないで、人のことを思っている」人です。クリスチャンの十字架は復活と栄光の為の準備です。現在の十字架から逃れると神様から頂ける栄光がありません。私達は現在の状況を否定したい、避けたい、逃れたい、認めたくないと思うときがあります。その時は何となく消極的になります。
しかし、十字架を避けることで別の人生に生れ変わるのではありません。ですから私達は積極に信仰を持って突破していきたいです。私達は各自の十字架を背負って進んでいきたいです。
3)十字架を通して信仰を訓練する
イエス様も十字架に従うことで天の父なる神様に完全な従順を見せました。私達の信仰が完全な物なのかは十字架で証明されます。十字架を前にして私達の信仰は試されます。頭の中では複雑な計算をします。心の中ではあらゆる心配をします。最後まで悩んだあげく信仰の道と、不信仰の道が決まります。十字架の道と逃げる道が決まります。私の信仰が本物かどうかが決まります。十字架を背負う瞬間、主の完全な愛を感じます。各自の十字架を経験しない限り、神の真の愛を知ることはできません。
3.わたしに従ってきなさい
人々は誰かに従って生きます。あるいは何かを追い求めて生きます。私の人生のロールモデルがいます。それを追い求めます。それは人生の目標です。私が尊敬する人になりたいです。皆さんは現在追い求めていることは何でしょうか? 何を切に追い求めるとそれを手に入れることができます。そして人生が決まります。虚しい物に従うと人生そのものが虚しくなります。従っていくことは一時的なことではありません。毎日少しずつそれに向かって進んでいくことです。ある時は倒れることもありますし、疲れるときもあります。意志が強いからと言って最後まで主に従えることではありません。
私達の隣にはそれぞれの十字架を背負っている人がいます。私の隣には同じ信仰の友達がいます。私が辛抱強く十字架を背負って行くと、私の隣にいる信仰の友達は私のことで勇気づけられます。十字架を背負っていく友達を見ていると励まされます。私もあの兄姉程度までは耐えないといけないかと忍耐の基準を高くします。忍耐のレベルを高くするので、教会全体のレベルが高くなります。主の為に熱心に奉仕している人々と共に働くことほど幸いなことはありません。
主に従って行くと私の既存の価値観が変わります。弟子達はイエス様に従っていく間、既存の価値観が変わりました。私達はイエス様を信じてから既存の価値観が変わったことがありますか?
信仰って何でしょうか? イエス様の力を借りて幸せになることでしょうか? それは他の宗教がやっている方式です。聖書的な幸せの求め方は私の幸せを主の御手に委ねることです。私の真の幸せの道を私より主が詳しいと確信することです。
結論
自分を捨て、自分の十字架を負うて、主にに従うことは私達の人生が終わる日まで続きます。イエス様の33年間の生活がこれでした。私達もこの三つのことで訓練されます。この頃の私たちの生活は自分を捨て、自分の十字架を負うて、主に従っているのか?もう一度振りかえてみたいです。
