<十字架による奇跡> マタイの福音書15:33~47 2026年4月12日

 十字架は前半と後半に分けることができます。時間的に分けると大体午前9時から12時、12時から午後3時くらいです。内容的にも前半は肉体的な痛みと人々からの精神的なストレスがありました。後半は肉体的な痛みと神との断絶による霊的なストレスがありました。私達は経験したことが無いので、どちらがしんどいか分かりません。

 けれども、私達も神の子どもなので、イエス様の弟子なので、イエス様に似ている者だから、いろいろの痛みとストレスをこの地上で経験して、これからも経験するでしょう。信徒の皆様が今まで経験なさった肉体的な痛みの限界はどこまでだったでしょうか? 信徒の皆様が今まで経験なさった精神的なストレスのクライマックスはいつだったでしょうか? 人によってケースバイケースだと思いますが、私達は自分の十字架を背負って毎日限界に達するまで頑張っています。今日の箇所を見るとイエス様は大声で叫ばれたことがすべての限度の瞬間ではないかと思います。しかし、それでも、その声に返事はありませんでした。

1.十字架は関係を回復させるもの

(1)父なる神からの返事が無かったのに

 イエス様は大声で父なる神に叫ばれました。イエス様は今まで一日でも、父なる神に祈らなかったことはありません。祈りますと父なる神は答えてくださいました。小さい声で祈っても聞いてくださいました。しかし、十字架の上ではいくら大きな声で叫んでも答えはありませんでした。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」。訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」

いくら叫んでも返事はありませんでした。今まで返事が無かったのは初めてです。

 父なる神と御子イエス・キリストは愛の関係です。愛する関係は話が通じる関係です。コミュニケーションができる、話し合いができる関係です。人々は話し合いによって幸せを感じ、満足を感じ、心の安定を得ます。話が通じないと不平、不満、不安を感じ、孤独になり、怖くなります。イエス様の叫びは不平、不満ではありませがが、父なる神と関係が断絶していることは確かです。

(2)人々に届かなかったのに

 イエス様の大声の叫びは父なる神だけでなく、近くにいる人々の耳にも届かなかったようです。イエス様は「エロイ、エロイ」と叫びましたが、近くにいる人たちはエリヤを呼んでいると勘違いしました。エロイ、エロイはアラム語です。マタイの福音書はエリ、エリと書いてあります。エリ、エリはヘブライ語で、意味は我が神、我が神です。どちらにしても人間エリヤを呼んでいたわけではありません。ここでエリヤを呼ぶはずがありません。それなのに、近くにいた人たちはエリヤを呼んでいると思い込んでいました。イエス様のお話が、イエス様の心が彼らに全く通じません。

 イエス様のお話が人々に通じかなったのは珍しいことではありません。イエス様の33年間のお働きの中、数多くの人々に、数多くの事を教えられましたが、彼らの心に届きませんでした。イエス様の教えが彼らに届かなかったので、たくさんの誤解がありました。大酒飲み、手を洗わない、安息日を守らない、神殿を壊す、神を冒涜したことなどがありました。神を冒涜したことで十字架を背負っているこの瞬間でさえ、話が通じませんでした。彼らは最初からイエス様の教えに耳を傾けるつもりが無かったわけです。

 ところが、父なる神に叫んでも届かない断絶があるのに、人々の耳にも間違って聞こえているのに、奇跡が起こりました。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けました。父なる神と話し合いができる通路ができました。人々と話し合いができる通路ができました。

 イエス様はエロイ、エロイと大声を叫んでも話が通じなくて、息を引き取られたら、話し合いができるようになりました。十字架は話し合いを断絶するものなのに、同時に話し合いができるようにするものです。十字架か不思議なものです。

 私達には話し合いができない人がいますか? 家族の中、コミュニケーションができないでしょうか? 上司と怖くて、話し合いができないでしょうか? 怖いから、ギクシャクしているから、言い争いたくないから、話し合うことだけでも気持ち悪いから、いろいろの理由で私達は誰かと話し合いにくいです。

 話し合いができない時、目を閉じて、イエス様の十字架を心の中に置いてみてください。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」と言ってみて下さい。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と言ってみて下さい。「エロイ、エロイ」と叫ばれたイエス様の大声を黙想してみてください。イエス様の愛が心に伝わってきたら、その瞬間誰かと話し合える勇気が与えられます。話し合いができないと思っていたその人と話し合える通路ができます。イエス様の十字架は人々との関係を改善する奇跡を作り出す物です。もちろん、父なる神との関係においても、奇跡を作り出す物です。

2.十字架は信仰(告白)を生み出すもの

(1)百人隊長の信仰告白

 百人隊長はイエスがこのように息を引き取られたのを見てからこう言いました。

「この方は本当に神の子であった。」

マルコの福音書において最高の信仰告白です。マルコはこの信仰告白を最後に飾るために、ここまで展開しました。マルコは1:1で「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ。」と宣言してから長い福音の物語を書きました。1章1節の最初に「神の子」と書いたのに、15章の終わりになってやっと結論として「神の子」だ結論を出しました。

 マルコの福音書にもペテロの信仰告白は先にあります。マタイは福音書ではペテロの信仰告白をこう記しました。「あなたは生ける神の子キリストです」。しかし、マルコは福音書でペテロの告白は「あなたはキリストです」だけです。マルコはペテロの口ではなく、異邦人の百人隊長の口を通して、信仰を告白しました。

(2)アリマタヤ出身のヨセフの信仰(告白)

 当時、上流層において、多くの人達がイエス様を信じ、イエス様の弟子になっていましたが、十字架の時は皆が隠れて声を出すことはありませんでした。その中で唯一、アリマタヤ出身のヨセフだけが勇気を出しました。イエス様の味方になることを表明するだけでも勇気が必要でした。なぜなら、当時はイエス様を信じることを表明するとユダヤ人共同体から追い出されました。神に従うよりは人々が怖いです。神の栄光を求めるよりは人々に尊敬されるのを好みました。今まで築き上げてきたすべてを、イエス様のせいで失いたくない怖さがありました。

 しかし、アリマタヤ出身のヨセフはイエス様が十字架で息を引き取られるのを見て、信仰の勇気を出しました。ピラトのところに行って、イエス様のからだの下げ渡しを願いました。ヨセフは有力な議員ですが、地上の権力よりは神の国を待ち望んでいました。イエス様の十字架が彼の信仰を目覚めさせました。ヨセフは丁寧にイエス様のご遺体をお墓に納めました。

(3)たくさんの女性たちの信仰

 イエス様の弟子たちは12人だけではありません。12人は使徒と呼んだ方が良いです。12人の使徒以外にもたくさんの弟子たちがいました。男性だけでなく、女性たちもたくさんいました。イエスと一緒にガリラヤからエルサレムに上って来た女たちがたくさんいました。彼らはイエス様のために、そして、12人の弟子たちのために献身的に仕えました。特にイエス様の最後は彼女たちが見守りました。男性はヨハネ以外、全員逃げて、隠れました。怖くて、怯えて、イエス様から離れました。しかし、幾人かの女性たちはイエス様がお墓に納められる最後の瞬間までそばを離れませんでした。お墓に納められる最後の瞬間も女性たちがいましたが、イエス様が復活なさる最初の瞬間も女性たちがいました。彼女たちはイエス様の十字架の死の証人であり、復活の証人です。女性たちが献身的に教会に仕える奉仕は今も続いています。

 今日の箇所で異邦人である百人隊長が信仰を告白しました。正真正銘のユダヤ人男性であるアリマタヤのヨセフが信仰を公に現わしました。当時は人数にも数えなかった数多くの女性たちがイエス様に献身的な奉仕を全うしました。イエス様の十字架が各種類の人達を一つにしました。国籍を超え、人種を超え、性別を超え、年齢を超え、職業を超えて、すべての人を一つにしました。このAI時代にもう一度、十字架がすべてを一つにする時代が来ることを期待しながら、私達に与えられている自分の十字架を背負って、頑張りましょうか。