マタイの福音書25章は神の御国に関するたとえが三つあります。1-13節は花婿を迎えるために待っている十人の娘たちのたとえです。これは女性たちと関係するたとえです。14-30節はタラントを預かった三人のしもべたちのたとえです。これは男性たちと関係するたとえです。福音書にあるたとえは大体このように男女のたとえをバランスよく並べています。男女にわけではいますが、言っていることは同じです。花婿が来る、主人が帰って来る、イエス様が再び来られる、しかし、その時がいつなのかは分からないので、「待っていなさい、備えていなさい」です。
1.主人と三人のしもべたち
この主人は相当なお金持ちです。五タラントでさえ、わずかと言っているのを見ると数えきれないほどのお金持ちです。今の時代だと大きなグループの会長のような主人です。彼は旅に出かける前にしもべたちを呼んで財産を預けました。お金を預けたと言わないで「財産を預けた」と言っています。タラントなので、財産と言った方が良いと思います。一タラントは大体6000デナリの金額です。1デナリは当時、労働者が一日働いて、もらえる賃金です。今の時代だと一日のアルバイト代です。計算しやすくするために、一日のバイト代が1万円であるなら、6,0000万円です。六千万円を預ける事なので、お金よりはやはり財産を預けたことになります。
主人から六千万円を預かることなので、三人はしもべよりは主人が相当信頼している管理者です。主人はそれぞれの能力に応じて、五タラント、二タラント、一タラントを預けました。金額の違いはそんなに意味が無いようです。五タラントの人も、二タラントの人も最後、主人に大いにほめられました。彼らは能力に応じて、仕事をして預かった金額より二倍残しました。しかし、一タラントもらった人は何もしないで、ただ土の中に隠しておきました。
やがて、主人が帰ってきて、三人の僕たちを呼んで清算をしました。五タラント預かった人は別の五タラントを儲けました。五タラントには比べ物にならないくらいのものが与えられました。ニタラントを預かった人は別の二タラントを儲けました。二タラントには比べ物にならないくらいのものが与えられました。
しかし、一タラントを預かった人は地面に穴を掘り、主人の金を隠しました。そして、仕事は何もしていません。やがて、主人が帰って来た時、彼はいくつかの言い訳をしました。彼の言い訳の中に重要ないくつかの間違いがあります。
24「ご主人様。あなた様は蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集める、厳しい方だと分かっていました。
このしもべはいくつかの間違いがあります。まず、主人との信頼関係が無いことです。主人は彼らに天文学的なお金を何の保証も無く預けました。主人がしもべたちを絶対的に信頼していたからです。しかし、しもべは主人に「あなたは悪人のような人です」と言わんばかりに言いました。「蒔かなかったところから刈り取る」悪い主人。「散らさなかったところからかき集める」厳しい主人。今まで長年間、主人と家族のように信頼できる関係だったので、大金を預けたわけです。しかし、このしもべは主人と信頼してないようです。
このしもべのもう一つの間違いは主人が本当に厳しい人であるなら、少なくとも銀行に預けたら、利子くらいはあったはずです。この怠けなしもべは利子すら残していません。彼は一タラントのまま持ってきました。
2.タラントのたとえの意味
主人は言うまでも無く、イエス様です。三人のしもべは言うまでも無く、私達です。それではタラントの意味は具体的に何でしょうか? タラントの単語の意味は才能です。単語の意味のまま解釈すると才能を生かして主のために働きなさいになります。
しかし、イエス様が私達にお金をたくさん儲けいなさいとは言っていません。主から頂いた才能を生かして、たくさんの奉仕をしなさいでもありません。タラントのたとえが神の御国に関することなので、伝道しなさい、献金しなさい、奉仕しなさいではありません。これらのことをやっても天国には入れないといろいろの教えを通して何回も教えられました。私達がいくら良い才能を持っているとしても、天文学的な価値ある才能ではありません。私達はイエス様から天文学的なものを預かりました。
それでは私達が持っている天文学的な価値あるものは何でしょうか? それは私達の中におられるイエス様です。イエス様を信じる信仰、この信仰が天文学的な価値ある宝石です。皆が同じ信仰を持っていますが、信仰の器が皆違うので、一人には五タラントの信仰の器を持っています。ある人はニタラントの信仰の器を持っています。ある人は一タラントの信仰の器を持っています。しかし、5、2,1の数字の違いはありません。イエス様を信じて生きている間に信仰の祝福がいろいろの形で増えます。
信仰と言う宝物を心に抱いて、この世に出て行って、信仰をフール活用して、祈るなり、頑張るなり、信仰の故に主が増やしてくださいます。その信仰が成功に導いたり、お金を加えてくれたり、偉いポストになったり、どこまで伸びるか分かりません。信仰のタラントにプラスαが次々と増えます。反対に信仰はあるものの、何も活用しないままで寝かせたままだと自分の力と能力で生きることになります。
29節を見るともっと明確です。
「だれでも持っている者は与えられてもっと豊かになり、持っていない者は持っている物までも取り上げられるのだ。」
信仰をすでに持っている者はますます信仰が成長して、伸びて、与えられます。信仰が私達に満足をくれるので、喜びがあり、幸せがあります。信仰の故に満足、喜び、幸せな人はますます、大きな満足と喜びと幸せが増えます。信仰が神の祝福をもたらすので、お金も増えます。 しかし、同じイエス様を信じる信仰があるのに、信仰の偉大な財産を心の深いところに埋めたまま、何も活用しないとこの世の否定的なものしか現れません。激しい競争の中、自分の人間の能力で勝つことしか考えられず、「どうやって暮らすの」とため息をついて、苦労するしかありません。最後の結果は心に隠しておいた信仰すら奪われることになります。
