創世記には宇宙の始まり、地球の始まり、自然の始まり、人間の始まり、家族の始まり、罪の始まり、民族の始まり、アブラハムとイスラエルの始まりがあります。しかし、これらの全部は目に見える空間であり、物質です。創世記1章1節には天と地よりも先に創造されたものがあります。それは目に見えないもので、感じられませんが、確かに存在するものです。色も匂いもありませんので、それが本当に存在するのかさえ分かりません。それは時間です。「はじめに」が時間の創造を意味します。速くすることもできないし、遅くすることもできません。給料日を考えると速めたいですが、家賃を考えると遅くしたいです。
創世記1:1で天と地を造られる前に神は時間というものを最初に造られました。時間が造られたものです。宇宙の中に存在するすべてのものはこの時間に支配されます。日本語では「初めに」、ヘブル語では「ブレシット」、これが創世記の題名です。
1.時間は造られたもの
造られたものなので、いつかは終わりがあります。宇宙の時間はイエス様が再臨なさる時、終わると思います。天国の生活は現在の時間感覚ではありません。私たちも頭の中ではいつか私の人生も終わるだろうと思ってはいますが、深刻には感じていません。今日があるから、当たり前のように明日もあると思っています。今年があるので、来年もあると当たり前のように思っています。しかし、時間は当たり前のものではありません。時間を創造された神からその都度、与えられるものです。明日も、来年も時間が与えられるかどうかは、時間の創造者であり、管理者である神のみ手の中にあります。神が時間を与えてくだされば、しばらく続きますが、与えてくださらなければ、終わりになります。神は時間の中、生きていく私たちを憐れんでくださいまして、大体はいきなり終わることはないように時間を計れるものを与えてくださいました。
2.時間を計る手段
神は時間の流れを知らせるために大空に太陽、月、星を下さいました。
1:14「光る物が天の大空にあれ。昼と夜を分けよ。定められた時々のため、日と年のためのしるしとなれ。」
これらのものから人間は一日の変化、季節の変化、一年の変化を知ります。それでもこれらのものは完全なものではありません。これらのものは時間が流れていることを何となく知らせるものです。これらの物から時間の流れを深刻に受け止めることはできません。
そのことで神は身近なものを通して時間の流れを知らせてくださいます。私たちが、時間の流れを深刻に受け止めているものがあります。それは自分の体の変化です。しわ、白髪、筋肉の衰え、そして周辺の人々の死です。私の母の一言を覚えています。「次は私の番なのか」
それ以外にも人生の先輩を通して、時間が早く流れるので、時間があるとき、真剣に生きるように教えてくださいました。
詩編90:10「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。そのほとんどは労苦とわざわいです。瞬く間に時は過ぎ私たちは飛び去ります。」
3.「逆戻り」や「もう一度」はない
今まで時間は創造されてから一度も止まったことがございません。聖書には太陽が天の空に一日止まったり(ヨシュアの時)、太陽が後ろに逆戻りしたり(ヒゼキヤ王の時)したことはありますが、時間が止まったことはございません。
時間はひたすら、進むだけです。過去に逆戻りして、未来を変えることはできません。時間の創造者であり、管理者である神でさえ時間を逆戻りしたことはございません。ですから、人間が罪を犯した時、時間を逆戻りすることはなさいませんでした。罪を犯す瞬間をそのままにしておいて、代わりに救い主イエス様を送って下さいました。イエス様でさえこの地上で33年間、時間に縛られておられました。一日24時間に縛られていました。
時間は生涯においてたった一度しか与えられません。ゲームみたいにもう一度リセットして、最初からやり直すことは出来ません。ですから、私たちは時間を貴重なものとして使いたいです。貴重に使うことは良いですが、過労して、休まないことは駄目です。休みは勿論必修です。ですから、神も昼と夜を分けたわけです。
若い時は時間がたっぷりあると考えやすいですが、その日その日の選択が人生を決めていくことを忘れてはいけません。一度決まったものは変わりません。
人生の前半はいろいろのことを決めていく時です。人生の後半はすでに決めたことを背負っていく時です。ですから、人生の前半よりは後半がつらいです。重荷を背負っているのでつらいです。しかし、その代わりに主の助けを頂ける時でもあります。主の助けを切実に慕い求める時です。
マタイ11:28「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
人生は後半になると真剣になり、深い味があります。人生の弱さを知るので謙遜になります。
4.人間の時間と神の時間
人間は時間を過去、現在、未来に分けて考えます。三つに分けないまま、話をすると話が混乱します。しかし、神は時間を造られ、支配なさるお方なので、過去、現在、未来に縛られるお方ではありません。神は永遠の現在のお方です。過去、現在、未来にちゃんと分けて考えることしか出来ない人間と永遠の現在の神との間には当然、ずれがあります。
聖書は永遠の現在の神のみことばです。
それを読んでいる私たちは過去、現在、未来に分けて考えることしかできない者です。ですから、当然、人間はそれをすぐに全部理解することはできません。過去、現在、未来に分けている人間の視点では聖書が間違っているかのように見えます。しかし、時間に縛られない永遠の現在の神から見れば全然間違っていません。ですから私たちは信仰の目で聖書を見ましょう。
イエス様の誕生の意味は永遠の現在の神が過去、現在、未来の時間に縛られた存在になったことを意味します。時間に制約されることがどれほど苦しいことなのか私たちもよく分かっています。イエス様はこの地に生まれたこと自体が受難です。
奇跡は永遠の現在の神が、過去、現在、未来の私たちの人生に加入なさることです。
過去、現在、未来の順序は変えません。逆戻りもありません。しかし、時間を延長して下さることはあります。別の道を導いてくださることはあります。神のみ心であるなら、奇跡は起こります。しかし、頻繁には起こりません。なぜなら、私たちの過去、現在、未来の時間が混乱に陥るからです。神は時間の秩序を壊すことはなさいません。しかし、どうしてもというときには神の奇跡は起こります。生涯において一度や二度くらいは良いと思います。
罪の赦し
永遠の現在の神は私たちの罪をイエス様の十字架によって過去、現在の罪を赦して下さいました。しかし、過去、現在だけではありません。未来の罪まですでに赦して下さいました。私たちの過去と未来は神の永遠の現在の中にあります。私たちが天国に行く直前に、たとえ、悔い改めることができなかったとしても、すでに神は赦して下さいました。
ですから、現在は信仰がいいが、未来は信仰を失うかも知れないと恐れてはいけません。神は私たちの未来まで全部赦して下さいました。しかし、それを勘違いして、これからは罪を犯しても、悔い改めなくても、良いと勘違いしてはいけません。永遠の現在の神が私たちの罪を指摘し、悔い改めに導きます。
結論
私たちはこれからも、しばらくですが、時間の中で暮らします。時間は感じられないものですが、今日も一秒も止まらず、進みます。どうか、主の導きの中、意味ある時間を過ごしましょう。
