聖書を知っている人はその通りに祈りますし、神は与えて下さいます。祈りの応えによって神を知ることが出来ます。今日の箇所でイスラエル民もアブラハムの約束を知っていました。それを信じて祈りました。そして、エジプトから救われました。彼らはその際に全能の神を経験することが出来ました。私達も聖書通読を通して、素晴らしい神のみわざを経験してみたいです。今日は初めての神経験に関して、見たいと思います。初めての神経験と言うのは聖書の神が初めて、私の人生に何だかの形で現れたことを意味します。それではいつ私達は神を経験するのでしょうか?
1.時
1)初めての神経験は人によって違う
人が神を初めて経験するのはそれぞれ違います。聖書には初めて神に出会った人々の物語がたくさんあります。彼らは神と出会うまではどんな状況だったのか? どんな人間だったのか。神と初めて出会った時? 彼らはどのような気持ちだったのか? 神との初めての出会いの後、彼らはどのように変わったのか?
例えば、サムエルは子どもの時、神に出会いました。幼稚園生くらいの小さい子が親と離れて、「神の箱があるところで寝ていた時」神の声を聞きました。ギデオンは臆病の人でしたが、神の確実なしるしを見てから勇者に変わりました。ダニエルは青年の時、外国で神を体験しました。モーセは年老いてから神に出会いました。アロンもモーセと同じ頃です。イスラエルの長老たちもモーセと同じ年頃です。
出エジプト4章のモーセ、アロン、イスラエルの長老たちは生まれた時から神を信じていましたが、神の存在をはっきり実感したのは歳を取ってからです。彼らの信仰は親の話を聞いていただけです。それも確か信仰は信仰ですが、確信と実感がない信仰です。
モーセは出エジプト3章のところでやっと神に出会いました。アロンとイスラエルの長老は4章で初めて神に出会いました。モーセによるしるしを通して神の存在を感じました。モーセ、アロン、イスラエルの長老たちは歳をとってから神に出会いましたが、それでも良かったのです。神の存在を認識しないまま人生が終わる人も大勢います。私達の神は生きておられるお方です。その存在を色んな形でしるして下さる神です。神は今日も、これからも、引き続き、その存在を人々に見せて下さいます。まだ、経験していない方もいつか神に出会います。
2)試練の時(奴隷の時)
今日のみことばに出てくる人々が神に出会った時は、試練の時でした。奴隷の悲しみの中、彼らは叫び求めました。奴隷になっている悔しさと重労働の大変さで、毎日が涙と嘆きでした。人々に取って試練は神を捜し求めるきっかけとなります。試練の時と試練が全くないときを比べると試練の時、人は神に叫び求めます。平和の時よりは試練の時、神に出会いやすいです。平和の時は人々が神を探し求めません。羊のように好きな道をどんどん進んで行って、道を迷ってから神を探し求めます。皆様に試練がありますか? その試練は神のみわざを体験出来る手段の一つです。
2.方法
神はどのような方法で現して下さいますか? 聖書に出てくる人々が初めて神を経験した方法もさまざまです。直接、声を聞いたり、奇跡を目撃したり、いろいろの方法を通して神を経験する人もいました。モーセのような人です。ある人は主から使わされた人から神のみ教えを聞くことで、神を経験する人もいます。アロンとイスラエルの長老のような人です。アロンとイスラエルの長老はモーセからの知らせを通して初めて神と出会いました。主~モーセ~アロン~民
普通の人が神と出会う一般的な方法はみことばによるものです。今の時代は主にイエス・キリストの福音によって神に出会います。神のみことばを聞いて心が平安になります。
ある時は、約束のみことば通りに祈りますと神が何だかの形で応えて下さいます。先ほど私の短い証をさせて頂きましたが、その時、勉強していた内容が「祈りの確信」でした。
聖書の箇所はヨハネ16:24です。
「今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。」
自分は洗礼を受けてから、神を経験した二十歳の時まで6年間、イエス様のお名前を通して祈りました。しかし、答えがあったのか、なかったのかよく覚えておりません。みことばに基づいていない祈りだったからです。応えて下さっても、分からない状態でした。祈っても自分の欲望や考えに基づいた祈りでした。私達は祈る時、何に基づいて祈りますか?
個人の必要に基づいて祈りますか? ほしいから、奴隷の試練があるから、悔しいから、悲しいから。妬みに基づいて。隣の人は祝福されたのに、他人には下さるのに、なぜ私には下さらないのですか? みことばに基づいて祈りますか? 神が聖書で約束しましたから、アブラハムにカナン地を約束しましたから。祈りはみことばに基づいているとき、強力なものになります。
聖書のみことばに従って祈りますと神は応えて下さいます。その応えによって私達は神の存在を認識することが出来ます。私達は聖書の神を現在経験してみたいです。先輩たちが経験した神を私達も経験したいです。その始まりは聖書を読むところからです。聖書を知らないと祈れません。祈らないと神の答えがありません。応えて下さったでも分かりません。聖書と親しくなると、神の応えも分かりやすくなります。毎日、聖書にふれますと神の導きが見えます。神は奇跡という形でその存在を現して下さることもありますが、普段はみことばを通して私達に現して下さいます。
3.理由
どうして神との初めての経験が必要でしょうか? エジプトの奴隷であったイスラエルの民は神を信じていました。しかし、その信仰は抽象的な信仰でした。なぜ、抽象的な信仰になったのかというとアブラハムから彼らまで400年です。アブラハムに与えたれた神の約束は400年後の子孫に取っては昔、昔の伝説です。400年前、アブラハムに与えられた素晴らしい約束と400年後の奴隷の現実はあまりにも桁外れの差がありました。
400年という時間がどのくらい長いか私達も想像できます。2026年の400年前、1626年、日本に何がありましたか? 1612年キリスト教禁止令がありました。現在私達の信仰は抽象的な信仰でしょうか? 昔、昔先祖から聞いた神の約束は知っているし、信じていますし。しかし、現実は厳しくて、落胆しています。信仰と落胆が混ざっています。私達が聖書と親しくならない一つの原因は私と関係ない昔の物語のように聞こえるからです。聖書が2026年現在、私に与えて下さる神の声のように聞こえると私達は熱心に聖書を読みます。親が持っていた信仰が子どもに繋がるためには神との初経験が必要です。前の世代と次の世代を繋げるもの、それが神の初体験です。その初体験によってアブラハムの神、イサクの神,ヤコブの神が私の神となります。親の約束のみことばが私への約束のみことばになります。親に与えられた祝福が私に与えられます。神はみことばの約束が本当であったことを自ら証明なさいます。神の約束は、いつか必ず現実に現れます。神は今日もある一人に神の存在を現して下さいます。その人は神のみ国の為に用いられます。
結論
私は個人的にヨハネ16:24を読む時、いつも大学の時代を思い出します。ヨハネ16:24は私に証と青春の思い出を与えて下さいました。聖書にはそのような約束がたくさんあります。その一つ一つのみことばに一つ一つの証が出来たら私達の人生は豊かになります。私達はこのような証を伴う生々しいみことばの数を増やしていきたいです。どうぞ皆様、聖書と親しくなって下さい。そうすれば皆様の人生がみことばで豊かになるし、幸せになります。
