<父ダビデ王の過ち> サムエル記第二 12:7~14 2026年6月21日

 人は誰でも過ちがあります。限界があるからではないかと思います。知識の限界があります。よく分からないので、知識不足で過ちを犯します。能力の限界があるからです。能力不足で、あれこれの賜物がなくて何も出来ないので過ちを犯します。自制の限界があります。人は誰でも罪の性質を持っているので、誘惑に陥ります。自分の心を自分の意志で制御出来ません。そのことでギャンブル、ゲーム、競馬、パチンコ、お酒、麻薬、不倫、以外にもたくさんあります。これらの中に一端、落ちこぼれたら、そこから脱出するのが難しいです。

 このような理由で人々は生きている間、数多くの過ちを犯します。ところが、一端過ちを犯してしまうと多くの被害を受けることになります。私たちが犯している過ちは色々ですが、その報いも色々あります。例えば、神に悔い改めることだけで全てが赦され、解決されることがあります。反対に、一回の過ちで悔い改めても、長く響くこともあります。私達が神にいかなる罪を犯しても悔い改める時、神は赦して下さいます。しかし、罪の種類によっては神に悔い改めて、赦して頂いても、その痛みが長く響くケースがあります。その例がダビデのケースではないかと思います。

1.ダビデが過ちを犯した理由

ダビデが過ちを犯した重要な理由は緊張感が無くなったからです。

 彼は若いとき、サウル王に追いかけられたので、いつも緊張していました。しかし、王になってからは追いかけてくるサウル王もいません。いつもイスラエルを苦しめた隣の国々もほとんどダビデによって征服されました。イスラエルには神からの平和で満ちていました。その時、ダビデの過ちがありました。霊的に常に緊張して、目を覚ましていなければならない王様が、心が平安なので、別に緊張する必要も無く、気を付けることも無くなりました。その理由で神との霊的な関係も怠けるようになりました。

 彼は11章2節で夕暮れの時間に床から起きあがりました。まさか前日の夜から次の日の昼まで寝たのか。或いは、昼寝を何時間も取ったのか。昼働いて夜寝るのが規則正しい生活ですが、彼の生活は乱れていました。寝る時間は寝ないで、寝てはいけない時間は寝ていました。生活が乱れるのでデボーションも省略です。ダビデは聖なる目標が無くなりました。

 霊的なプレッシャーは私達を霊的に緊張させます。私達はプレッシャーが全然ないことを期待しますが、それは良いことではありません。イエス様でさえ、常にサタンの邪魔と妨害を受けて、常に目を覚ましていました。ルカ4:13「悪魔はあらゆる試みをしつくして、一時イエスを離れた」。サタンは荒野で、イエス様に完敗したのに、一時イエス様から離れて、また他のあらゆる試みを持ってきました。

ダビデが過ちを犯した他の理由は生活の余裕が出来たからです。

 私達が常に求めることは生活の余裕です。経済的な余裕、時間的な余裕、精神的な余裕を求めます。余裕を求めることは全然間違いではありません。逆に余裕ある生活を求めることは正しいことです。問題は与えられた生活の余裕を正しく使わない時、事件は起こります。ダビデは仕事が著しく減りました。少し忙しい生活は私達の精神的な健康の為にも良いことです。全然仕事が無いことは息苦しいことです。仕事が多くて忙しい時には罪を犯しませんが、仕事が無くて、暇の時間が多くなると霊的にも危なくなります。

 その意味で教会の礼拝と奉仕というのは私達の魂を守る安全装置の一つです。霊的に常に緊張させる役割をします。教会で一人が一つ以上の奉仕をすることは私達の霊的な面において有益です。

2.罪の影響力

 罪の報いは私達が考えているより怖いです。その破壊力は大きくて(完全破壊)、深くて(回復不能)、広くて(周辺の人に被害)、長く(一生)響きます。罪の怖さは神との関係を断ち切ることはもちろんのこと、人間関係を断ち切る破壊力があります。神との関係は悔い改めれば赦して下さいます。しかし、一回切れてしまった人間関係はなかなか回復出来ません。神が赦して下さっても、隣の人々は私の過ちを赦してくれません。なぜなら、人間は皆、他人の罪は赦さない同じ罪を持っているからです。他人の過ちを赦す人はなかなかいません。

 ヨハネクリストプ、アノルドさんの本「失われた技術、赦し」があります。ダビデの生涯からつるぎがいつまでも離れなかった最も大きな理由は神が彼を赦して下さらなかったからではなくて、ダビデの周辺の人々が彼を赦さなかったからです。もちろんダビデが原因を提供したので、ダビデは文句を言うことは出来ません。けれども、罪はとっても恐いものです。

 これはダビデだけではなく、3000年前の話ではなく、私達のことであり、現代の事です。罪が別の罪を生み出します。また、その罪が原因でもっと大きな罪を生み出します。考えるだけでも恐いです。ダビデが罪を犯したので、周辺の人々との関係が壊れました。

1)ヨアブ

 ヨアブは軍の長官です。いつもダビデの隣で忠誠を尽くした人でした。けれども、ダビデがバテシバとの罪を隠すためにバテシバの夫ウリヤを戦死させる計略をヨアブに指示しました。激しい戦闘のところにわざとウリヤを先頭に立たせて敵の手によって戦死させるように指示しました。ヨアブは訳も分からないまま、ダビデの共犯者になってしまいました。この卑劣な事件はダビデの急所となりました。ダビデはヨアブに弱みを握られました。この出来事以後、ヨアブはダビデの言うことを聞かなくなりました。王としての権威がなくなりました。ヨアブが言うことを聞かないので、悲劇の種となりました。

2)息子達

 ダビデの息子達は良い子ども達でした。しかし、この事件以後、変わります。ダビデの息子達にはそれなりの悔しい思いがありました。ソロモンは元々生まれる予定では無い子どもなのに、父ダビデの過ちのせいで生まれました。それに加えて、もっと大きな問題は次の王位がソロモンに決まりました。王位までソロモンに奪われてしまいました。元々、彼らの中から王になるはずでしたが、それが出来なくなりました。そのことでダビデはお父さんとしての権威を失ってしまいました。その理由で長男、三男、四男が次々と自分勝手な行動を取ってしまって、家族全体が殺し合って、国全体が困難に陥ることになりました。

3)国民

 国民もダビデの過ちが噂になりました。民ももちろん失望しました。王としての権威が無くなりました。統治するのが難しくなりました。一人の罪が全家族に、それがまた全社会に、全国に広がりました。罪の影響力という物は神が赦して下さっても、周辺の人々がそれを赦さない限り、しばらくその苦しみは続きます。周辺の人々も同じく神の憐れみと赦しが必要な同じ罪人だからこれらのことが起こるわけです。

回復

 人は誰でも過ちがあります。しかし、それでも、幸いなことは人が過ちを犯し安い者であることを神がご存じです。ですから私達の弱さをあわれんで下さいます。私達が過ちを犯しても、真心を込めて悔い改めるなら、主は赦して下さいます。罪の影響力が深くて、広くて、大きくて、長く響くことは事実です。しかし、それでも神の回復の恵みはそれよりもっと深くて、広くて、大きくて、長く続くと言うことです。

 神による回復は元通りの回復よりもっと良い状態への転換です。例えばアダムが罪を犯しました。その後、人類は罪人になりました。しかし、イエス様の血潮によって回復して下さいました。けれども、その回復は創世記一章、罪を犯す前のエデンへの回復ではありません。それよりはるかに輝く栄光の回復、神の子どもとしての再創造の回復でした。

 ダビデがバテシバと罪を犯して、深刻な家庭破綻がありました。しかし、神はバテシバの二人目の子どもであるソロモンを非常にあわれんで下さり、愛して下さいました。サムエル下12:24「ダビデは妻バテシバを慰め、彼女の所にはいって、彼女と共に寝たので、彼女は男の子を産んだ。ダビデはその名をソロモンと名づけた。主はこれを愛された。25 そして預言者ナタンをつかわし、命じてその名をエデデア(主に愛された者)と呼ばせられた。

 神は私達の過ちでさえ、良き物に変えられる恵深いお方です。この世の価値観では戸惑う人もいるかも知れません。ソロモンを愛するなんて。ダビデとバテシバのせいで傷ついた人はどうするの、神はソロモンを愛するとそのことで傷つく人はどうするのかと色々考えられます。

 しかし、天の父なる神は慈しみ深くて、いつまでも罰を追及するお方ではありません。私達はいつまで経っても他人の過ちを赦しません。赦したくない罪の性質を皆持っているからです。

 ダビデの子ども達も考えてみれば可愛そうです。父ダビデが原因を作りました。しかし、その反面、彼らの元々隠れていた罪がお父さんの過ちを切っかけに現れたのでなるどうしましょうか? ですから彼らの失敗をただ父ダビデの過ちのせいにすることは出来ません。 人は誰でも過ちがあります。誰でも過ちがあるということは誰でも加害者であり、被害者であることです。この人から被害を受けながら、あの人を傷つけています。私達は皆、神のあわれみが必要です。また、互いにあわれむ必要があります。互いに許し合うあわれみをもって生活しましょう。