<今年の信仰診断> マタイの福音書15:21~28 2026年5月31日

 私達は定期的な健康診断を受けています。診断結果をみて適切な運動なり、食生活改善なり、健康の為に色々努力します。体の健康状態をチェックするのが健康診断であるなら、霊的な状態をチェックするのを信仰診断と言っても良いのではないかと思います。今日のみことばに出てくる一人の女性を通して、私達の信仰を診断してみたいと思います。この女性の信仰をイエス様は「あなたの信仰は立派です」と診断して下さいました。彼女の何が立派でしょうか? イエス様は私達の信仰にはどんな診断をなさるのでしょうか?

 健康診断の時、項目がいろいろありますが、信仰の診断にも項目がいろいろあります。信仰診断の項目は祈り、みことば、奉仕、献金、忍耐、隣人を愛すること等幅広いです。今日のみことばの女性はイエス様に叫び続けながら願い求めましたので、祈りの項目です。今日は信仰の祈り部分を中心に私達の信仰を診断して見ましょう。

1.信仰の個人差:器と切実さの差

(1)信仰は同じだが、人それぞれ違う

 体は皆同じですが、健康診断で現れる数値は皆、違います。信仰に関しても同じことが言えると思います。私達は皆、同じ信仰を持っていますが、それが人によって違う形で現れます。イエス様は彼女に「女の方、あなたの信仰は立派です」と誉めて下さいました。弟子達には信仰の薄い者、信仰が無いと厳しくお叱りになったことがあります。

 聖書にはこのような信仰に関する沢山の表現があります。「信仰がある、信仰が無い、信仰が薄い、信仰が足りない、信仰が弱らなかった、信仰を増して下さい、信仰が成長する」等の表現があります。簡単に説明出来ないほど幅広い表現です。

 信仰は元々神様からのプレゼントです。ですから持っている信仰の中身は同じです。唯一の神様を信じることだから信仰も唯一です。ですから現れる信仰も一つであるはずです。しかし、信仰が私達の中から現れる時、大きく現れる人もいれば、少ししか現れない人もいます。確かに信仰は一つですが、それを保っている信仰の器は人それぞれ違います。

私達は短い人生経験に基づいて判断する者なので、信仰を制限します。私達が持っている信仰そのものは素晴らしいですが、制限された部分しか現しません。地域性、国民性、個人の性格、既存価値観、性別、人生経験、などによって制限された信仰しか表しません。私達は自分たちも知らないうちに信仰を制限しています。

信仰は生きている物なので常に大きくなろうとする傾向がありますが、私達はそれを制限して、閉ざしてしまおうとする傾向を持っています。これは罪の性質から来ているかも知れません。なかなか信じようとしないことをイエス様は大きな罪として厳しくお叱りになりました。彼女はカナン人で、女性で、違う歴史の中で暮らしていた人ですが、この世の価値観にとらわれないでイエス様に単純に助けを求めました。

 私の間違った価値観、判断、性格がどれほど信仰を制限して、妨げているのか考えたことがありますか? 信仰と言うのは私の視線から神を見るのではなくて、神の視線から私を見ることです。

(2)同じ信仰でも切実さによって違います。

 選択肢が無いとき、信仰の道以外には他の道が無いとき、信仰の道を選びます。信仰の道を選ばざるを得ない時ってあります。最初この女性はイエス様を「主よ、ダビデの子孫よ」と呼んでいます。しかし、彼女にイエス様に関する旧約の預言とそれに関する知識はないと思います。彼女は他の人々が「ダビデの子孫」と呼んでいたので、彼女もその呼び方を引用したと思います。彼女は聖書のみことばをどのくらい知っていたのか分かりませんが、誰よりも切実でした。

 人は切実な時、今までなかった素晴らしい信仰を表現します。この世のものが頼りにならないとき、素晴らしい信仰者になります。私達にはこの切実さがありますか? 私達も彼女のように主に叫び求めたいですが、なかなか出来ません。何が問題でしょうか? 信仰はありますが、切実にはなりません。なぜ、切実にならないのか私もまだ分かりません。その答えを各自でこれからじっくり考えてみましょう。

2.信仰の表現

信仰は生きている物なので目に見える形で現れます。私達の心にある信仰はどのような形で現れるのでしょうか? それも人によって違います。

(1)叫び求める

 彼女は「あわれんでください、お助けください」と声高く叫び続けることで彼女の信仰を表しました。彼女の信仰の一番大きな特徴は忍耐強く叫び続けることでした。彼女は切実です。隣の人を気にするくらいの余裕はありません。娘のことで精一杯です。信仰が大きくても、小さくても共通する特徴は主に切実に助けを求めることです。

信仰が無い人はイエス様に声をあげて助けを求めることをしません。信仰が無い人はイエス様の事を誹謗中傷しました。

「悪霊を追い出しているのは、悪霊のかしらベルゼブルによるのだ」

信仰が無い人はイエス様を非難して、無視しました。

「安息の日なのに癒した。ナザレ出身のくせに、大工の息子が」

信仰が無い人はイエス様を信じるのに条件を付けました。

「奇跡を見せてくれれば信じる、十字架から降りてきたら、信じてあげよう」

 信仰が無い人は隣人ばかり気にします。隣人ばかり気にすると叫び求めることが出来ません。信仰は隣り人を気にするのか、神を気にするかです。信仰が無い人は神は意識しないで、人間だけ意識します。隣の人を気にすると祈れません。今日のみことばの彼女はあまりにも切実なので、人の目はどうでも良いと思っていました。イエス様しか見えません。大きな声を出してでも、イエス様の進路を妨げても、娘のことしか頭にありません。彼女は大きな声を出していることすら忘れているかも知れません。

 祈りに集中すると「私が主のうちにあり、主が私のうちにおられる」世界に入ります。声を出しても、出さなくても、叫んでも、叫ばなくても、祈りは深くなります。祈りは心から主の声を聞く練習です。祈りは聖書のみことばと並行して、主の声を聞くものです。私達は祈りの生活を通して信仰を診断してみましょう。この頃、祈りに集中できますか? 心配していることがあって、思い煩いがあって、祈りに集中できませんか? 今日の箇所の彼女は心配することがあっても、祈りに集中したのに、どうして自分は心配していることがあっても、祈れないのか。

(2)弱さを認める

 信仰の基本は天の神に素直に助けを求めることです。自分の弱さを認める人は誰でも素直に神に助けを求めます。しかし、プライドが強くて自分の弱さを認めたくない人は主の助けを求めません。彼女は誰よりも素直に弱さを認めました。彼女は異邦人であることを素直に認めました。娘の弱さを素直に認めました。そして助けを求めました。彼女が素直に弱さを認めた言葉が「小犬」と言う言葉です。その時代「異邦人」ということばは深刻な差別用語です。イスラエル人は「異邦人」を「犬」ように見ていました。

 ところが、イエス様も同じことばを使いました。イエス様はいくら異邦人でも、差別するお方ではないのに。異邦人も救われるべき貴い魂として見ていました。それなのになぜ、「小犬」と言う差別用語を使ったのでしょうか? その理由は彼女が「ダビデの子よ」と呼んだからではないかと思います。それの応答が「イスラエルの家の失われた羊以外の者」とか「小犬」です。「ダビデの子」は良い意味もありますが、異邦人から見ればイスラエルを中心にして、異邦人は軽蔑する言葉です。

 イスラエル人は来るべきメシアを「ダビデの子」と呼びました。しかし、異邦人には「犬」と呼んでいました。イスラエル人から見れば「ダビデの子」はイスラエルのメシアであって、犬である異邦人を武力で征服するメシアです。イスラエル人にとって「ダビデの子」はイスラエルの為のメシアであって、その恩恵は異邦人には及びません。イスラエル人の概念からみれば「ダビデの子」は彼女を救いません。娘も癒してくださいません。

 イスラエル人の信仰では彼女は捨てられた異邦人に過ぎない存在です。イエス様は彼女の呼び方に合わせて、その時代の価値観に基づいた表現を借りて、「イスラエルの家の失われた羊」とか「小犬」という言葉を使いましたが、実は彼女の信仰をテストしたわけです。

 イエス様のテストによる信仰診断に彼女は見事に合格しました。彼女にとって気持ち悪い言葉でしたが、その時代の価値観を超えてイエス様を彼女の主として受け入れました。彼女ほど素直に弱さを認めて、助けを求める人はイスラエル人にはあまりいませんでした。私の信仰の弱さ、私の人生の痛みを恥と思わないで、素直に認めて主に助けを求めるとき、主は私達の弱さを癒して下さいます。

(3)諦めない(長く、繰り返し)

 彼女は諦めない信仰でした。諦めない信仰とは願いが応えられるまで何回も何回も叫び求めることです。同じ願いを何回も何回も繰り返して、長い時間繰り返して願い求めることです。私達の祈り時間は短いですが、諦めも早いですが、この課題をどうすれば克服できるのでしょうか?

結論

 健康診断の結果を見て体質を改善するために人々は運動をします。時間を決めて規則正しく運動をします。同じく、信仰診断の結果を見て信仰の体質を改善しましょうか? 信仰診断を通して、信仰の体質を改善して行きましょうか? みことばと祈りを通して規則正しい信仰生活を続けましょう。