神の言葉・みことばを聴くことは神さまからの賜物です。その体験を詩篇第119篇は「みことばの戸が開くと、光が差し」と言いあらわしています。みことばを聴くということは、開かれた戸から差し込んでくる光を感じ、光に包まれ、また光に打たれる体験と言えるでしょう。そのようにしてみことばを聴くとき「浅はかな者に悟りが与えられ」ます。このようなみことばを聴く体験は、聖霊のお働きによるものです。その聖霊について、キリストは弟子たちにこうお語りになりました。
「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを想い起させてくださいます。」
弟子たちは、キリストから直接いろいろな言葉を聞いてきました。その言葉を弟子たちは、素晴らしい言葉だと感心しながら聞いたことでしょう。しかし、この時の弟子たちにとってキリストの言葉は、所詮、素晴らしい言葉、美しい言葉にすぎませんでした。キリストの言葉の持つ真の意味を理解し受けとめることができない「浅はかさ」が弟子たちにはありました。そういう弟子たちに聖霊が遣わされて来たとき、キリストがお話しになったすべてのことを教え、すべてを想い起させてくださる。そうキリストは約束なさいました。聖霊は、今まで聴いたことのない全く新しい話しを聴かせるというのではなくて、これまでに既に聞いてきたキリストの言葉のすべてについてそれを教え、それを想い起させてくださるというのです。
この聖霊についての約束は、この時の弟子たちだけのものではなくて、今日の教会についても当てはまる約束です。私たちの場合で言えば、聖霊が「すべてのことを教え、すべてを想い起させてくださる」内容は、聖書に記されているキリストの言葉はもとより、聖書全体の言葉に及びます。
こうしたことを記していますヨハネの福音書第14章23節以下(特に26節)は、教会歴による聖書日課では聖霊降臨主日のテキストとされてきました。この聖霊降臨主日礼拝で語られる聖書テキストについてディートリヒ・ボンフェッファーは次のように述べています。
「使徒の働き」では、最初の、ただ一度起った聖霊降臨の出来事について語っているが「ヨハネの福音書」では、現在の、たえず(繰り返し)起る聖霊降臨について、あらゆる時代に、教会に起こる聖霊降臨について語られている。(新教出版「ボンフェッファー説教全集3」より) 聖書の言葉について「すべてのことを教え、すべてのことを想い起させる」聖霊降臨は、今も、私たちの礼拝に起る祝福です。それによって神さまは教会に、わたしたちに、みことばの戸を開いてくださるのです。
