使徒の働きでは、イエス様がよみがえり弟子達と共に40日滞在し、天に昇られた後、エルサレムから送り出された使徒たちの伝道の奮闘が書かれています。ちょうど東京教会の通読も使徒の働きを読んでいますね。 使徒たちは、イエス様の十字架の救いをあらゆる人々に伝えるために出て行きます。なぜ、告げ知らせるのでしょう?
使徒の働き1章8 -9節
8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」
9 こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。
使徒たちが福音を告げ知らせる理由、それは、イエス様が励ました通りに、遣わされる場所で福音という良い知らせを伝え続け、イエス様こそが真理であるということを証明するためです。これはイエス様の御心であり、この地でなされるように望んでいることです。
そして、6章2-6節では、エルサレム教会から7人の執事たちが選ばれます。祈りと御言葉に専念する使徒たちに代わり、教会内のことを執り仕切る役割として選ばれました。その7人の中に今日、出てくるピリポという人がいます。今日の箇所であるピリポとエチオピアの高官の出会いと救いは、使徒の働きに出てくる最初の異邦人(ユダヤ人以外の人々)伝道の記録と言えます。
<エチオピアの宦官>
まず、登場人物であるエチオピアの宦官のエチオピアは、今のほぼスーダンのあたりを指します。このエチオピアの宦官は、女王に直接仕える、現在で言うと財務大臣のような役割を担っていました。宦官は、去勢された人であり女王・王女などの女性たちに側近として、直接仕えることのできる地位ある役割でした。しかし、旧約聖書の律法、申命記23章1節には、去勢したものは主の集会に加わることができない、という教えがありました。律法においては、彼は、改宗が許されない人であり、全く違う文化と言語で育ち、神とは地理的、文化的、律法、全てにおいて神からほど遠いところにいる異邦人でした。しかし、彼は、イスラエルの神を信じており、礼拝するためにエルサレムへ上っていくほど熱心でした。その礼拝からの帰りも、馬車の中でイザヤ書の巻物を読むほどでした。そんなエチオピアの宦官は、主の導きによって、ピリポと出会うことになります。
<ピリポ>
ピリポは、主の御使いの声に聞き従い、エルサレムからガザに下る道(ギリシャ語の単語“では、寂しい場所)へ出ていきます。そこへ行ってみると、また御霊が、馬車に近寄って一緒に行きなさいと言われます。「寂しい場所へ行きなさい、馬車に近寄って一緒に行きなさい。」この時点では、ピリポはなぜ寂しい場所へ、なぜその馬車へ近寄らなければならないのか、理由はわかりません。ただ主が教えてくださったように、導かれるままに、行動しました。そんなピリポは、主の導きによって、エチオピアの宦官に出会うことになります。
<導く人がいなければ>
30節 ピリポが馬車に近づいた時に、イザヤ書の朗読が聞こえてきました。当時の文化では、音読することは普通のことでした。ピリポは、「あなたは、読んでいることが分かりますか。」と話しかけます。馬車に近づいた時に、明らかに裕福な異邦人であることがわかったでしょう。しかし、それでも、御言葉を理解するのに導き手が必要な人に対して「読んでいることがわかりますか?理解できますか?」と、寄り添いながら聞きます。
宦官は、この言葉を待っていたかのように、「導いてくれる人がいなければ、どうして理解できるでしょうか?」と言いました。宦官にとっては、自分が待っていた人でした。神を信じながらも、律法に相応しくない人間であり、文化も言語も、住む場所も違うために、誰かに聞くことも誰かに頼むこともできなかったのに、目の前に導き手が現れたのです。そして、宦官の方から、「導いてくださるあなたが必要です」とピリポを招くのです。
私たちは、エチオピアの宦官のように、生きている世界が自分とは全く違う人に出会います。育ってきた家庭環境、価値観、文化が違う、一見、「この人にはイエス様のこと語ってもわからないだろうな」と思う人がいます。しかし、エチオピアの宦官のように、一見、神様からかけ離れているような人に見えても、主を求めて飢え乾いている人は周りにいるのです。
ローマ人への手紙10章12 – 13節
12ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。 13 「主の御名を呼び求める者はみな救われる」
同じ主が全ての人の主です。人種、文化、宗教、過去、身分、職場、学校、全て関係なく、どんな人でもイエス様を呼び求めるものは救われます。全ての人の主なのに、すでに福音を知った私たちが、この人は福音を聞かなくてもいい、と判断する人間は一体何ものでしょう? 今日、ぜひ、私の周りにいるエチオピアの宦官は誰か、祈り考えてみてください。
<導くお方がいなければ>
宦官はイザヤ書53章7-8節を読み上げ、ここで語られている“彼”とは誰のことかと尋ねました。イザヤ書の、しもべの歌とよばれる詩の中の一つで、選ばれたしもべ(彼)が苦難の末に死に、国々に正義をもたらすという内容です。ここで話されている“彼”とは誰ですか?と聞かれたなら、皆さんはどう答えるでしょう。
ピリポは、この箇所から始めて、イエスの福音を伝えた、とあります。この箇所の子羊のように引かれて行き苦しみを受けた人は、イエス様のことを指しています。ピリポは、この箇所から「始めて」福音を伝えました。それは、イエス様だよ、という答えだけでなく、この質問を用いて、福音を話す機会を得たということです。
そして、宦官は「私がバプテスマを受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」と洗礼を願いでます。彼にとっての神を恐れていても改宗できない妨げは、何があったのでしょうか。律法では、ユダヤ教に入れない宦官であり、異邦人であり、ユダヤ教とは、イエスキリストとは無関係のものでした。しかし、福音を知って、その妨げは崩されました。イエス・キリストの十字架により、和解が与えられて、彼にもその同じ恵みと祝福を受けることができるものだと理解したのです。
導く側も、導かれる側も、聖霊の導き無しでは、伝道は行われないのです。全ての主導は、聖霊の働きによるものだからです。伝道は、人間の努力によるものではなく、神様の働きです。その働きに、私たち人間が加わるようなものです。そして、伝道は主の御心です。イエス様が願っておられる人々の救いの御業です。人間は、主の導きの中で、主がくださるタイミングで、語るべきことを語る、隣人を愛する行動をする、それが神様の働きに加わっているということではないでしょうか。今、私たちが選んだと思っている場所でも、そこは聖霊が確かに送ってくださっている場所です。そして、確かに聖霊の導きにより、私たち一人ひとりを用いて福音を伝えようとしている人がいます。
私たちは今こそ、主の導きの中で、主の働きが行われるように、伝道が行われるように、その働きに自分が加わることができるように祈りたいと思います。ピリポはその宦官に洗礼を授けた後、御霊によって、別の街へと移動します。この一人の外国人のために、主はピリポを送ったのです。一人の救いのために、私たちも今この場所に遣わされているのです。 私を用いてくださって主の御心が、救いがこの地にありますように。主の伝道の働きに自分が加えられますように、主の聖霊の導きに従順でありますようにお祈りしましょう。また、皆さんの心に今浮かんだ、エチオピアの宦官のような人を思い浮かべて、その方の救いのために今お祈りしましょう。
