聖書箇所:ピリピ人への手紙 3章17~21節
人は生まれてから家庭をはじめ、幼稚園、学校、また成人になってからは会社、教会など、いろんな社会団体に属して生きます。そして、時には自分の属している、その団体に影響力を及ぼしたりもしますが、ほとんどの場合、その団体から多くの影響を受けながら生きます。それで、その団体の目指している、価値とか目標がその団体に属している個人のidentityとなったりもします。そのわけで、私たちがどのような共同体に属しているのか? これこそ、私たちの人生にあって一番重要なことではないかと思います。それでは、私たちが属している共同体の価値と目標、そして私たちのidentityは何でしょうか?
今日の箇所でパウロは、ピリピ教会の信徒たちに「私たちの国籍は天にあります」とはっきり言っています。つまり、私たちのidentityは天に属している、天国の市民であるということです。本当に驚くべきことです。私たちはこの世の市民でもありますが、同時に天国の市民でもあります。皆さん、この事実が信じられますか? それでは、私たちは現在、天国の市民であることを実感して、また天国の市民のように生きていますか? 今日の箇所18節を見ると、パウロがピリピ教会の信徒たちに向かって?「今も涙ながらに言うのですが」とあります。なぜでしょうか? なぜパウロは、ピリピ教会の信徒たちに向かって「涙ながらに言っている」のでしょうか?
当時、ピリピは「小さなローマ」というニックネームを持っている、ローマの直轄植民地でありました。また、周りには金を採取する金鉱があってお金持ちが多い都市でありました。ローマはこのピリピの人々に市民権も与えました。それなら、ローマの市民権を持って豊かに暮らしているピリピ人々を羨むべきなのに、なぜ、彼らに向かって涙ながらに話しているのでしょうか?
18節後半から19節に、その理由対してこう言われています。多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。つまり、彼らは自分が天に属している、天国の市民という?identityを完全に忘れてしまって生きているということです。私たちも「天国の市民」ということをはっきり認識しなければ、ピリピ教会の信徒のように、地上のことだけ考えて生きるしかありません。天国がどんなに良いものでも、その価値を知らずに、大切に思わなければ、すぐに忘れてしまい、結局は失ってしまうことになります。
イエス様はルカの福音書17章で人の子か゛現れる日、ロトの妻を思い出しなさいと言われました。ロトの妻は、ソドムが滅ぶ前には救われた人でした。しかし、ソドムに置いて来た自分の財産が惜しがったのか、後ろを振り返ったので、彼女は塩の柱になってしまいました。
アメリカにジム・シンバラ(JimCymbala)という牧師がいます。彼はこう言いました。私たちが住んでるこの地で神様のご臨在を経験しようと努力しなければ、皆さんはなぜ天国に行こうとするのですか? そして今、私たちが住んでるこの地で、私たちと共にする主のご臨在が楽しくなければ、私たちが行こうとする天国はすでに天国ではありません。天国はいつも神様と共にいるところからです。そして神様を切に探さず、神様のご臨在を楽しまない人を、神様はなぜ天国に連れて行かなければならないですか? それで、私たちも天国の市民なのか、そうではないのか。自ら点検して見なければなりません。それでは、それをどうやって知ることができますか? それは私たちの中にイエスがいるかどうか、それを見れば分かります。
パウロもこのようにお勧めしました。
コリント人への手紙第二13:5
あなたがたは、信仰に生きているかどうか、自分自身を試し、吟味しなさい。それとも、あなたがたは自分自身のことを、自分のうちにイエス・キリストがおられることを、自覚していないのですか。
同じように、イエス様が再臨して私たちを審判する時、何を見て判断しますか? 私たちの名前や顔を見て判断しません。私たちの中にイエスがいるかどうか、それを見て判断するのです。
ところで、皆さん、私達は天国の市民権を持ってはいますが、私たちがこの地に住んでいるので、天国の市民権がどんなものなのかよく分からないかもしれません。皆さん、一度は海外に行った経験があると思います。その時、私たちは必ず自身が属している国のpassportを持って行きます。日本passportを持っていれば、どこへ行っても日本人としての法的保護を受けることができます。
今年6月にも突然イラン・イスラエル紛争が起きた時、日本政府は特別航空機を送って日本人87人を救い出しました。彼らは皆、日本のpassportを持っている日本市民なので、安全に救助されることができました。ところが、その時、もしある人が「自分が日本市民なのか」分からず、その特別航空機に乗らなくて、不幸なことに現地で死んでしまったのなら、どれほど悔しいでしょうか?
そのわけで、パウロは今日の箇所17節で、兄弟たち。私に倣う者となってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてくださいとあります。この御言葉もまた、もしパウロをよく知らない人が聞いたら、「パウロ、あの人、本当に傲慢な人だな」と考えることもできます。しかし、ここに集まった皆さんはすでにパウロについてよくご存知なので幸いです。パウロは福音を正しく理解している人です。福音とは何ですか? 私は死んで私の中にイエス様が生きるのです。皆さんも、よくご存知の有名な箇所です。
ガラテヤ人への手紙 2:20 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。
このように生きることは国籍が天にある天国の市民として生きることです。キリストの十字架の福音にふさわしく生きることです。ところが、私たちはどうですか? イエス様が私の中におられ、イエス様がお働きになるよりは自分でやらないと何か不安になることもあります。それで、私たちはイエス様に頼らず、自分の力と能力を信じる時がたくさんあります。その理由で倒れたら、そうだ、私はダメだ、私は天国の市民ではないようだと気を落としたりします。なぜなら、本当に見つめなければならないイエス様を見ることができず、自分自身を信じ、世の中を見るので、、私たちは時々倒れたりもします。まるで、ペテロが水の上を歩んでいて、最後までイエス様を見ることができず、荒波を見て、水に落ちこぼれたようにです。
しかし、皆さん、私たちの中に本当のイエス様がおられるなら、そしてその方だけを信じ、確かに見つめることができたら、問題は完全に変わることがあります。
マタイの福音書17:20「イエスは、・・あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに言います。もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に「ここからあそこに移れ!」と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません」と言われました。
ここで私たちに要求されるのは、パウロのような信仰と極端な体験ではありません。からし種ほどの、本当に小さい信仰だけ要求されます。皆さん、からし種をご覧になったことがありますか? 私もこれを見て勇気を出しました。
そして皆さん、金を掘る鉱山で、石1tの中に金の成分がどのぐらいあれば採算性があると判断するのか聞いたことがありますか。たった2gであるそうです。石1t、つまり1,000,000gの石塊からたった2gの純金を得ることが出来れば、その石はすでに石ではありません。ゴールドとして認められるのです。
私たちの信仰も同じです。小さいですが、確かな信仰を持っていれば、私たちは天国の市民として認められることができるのです。多くの部分が捨てられなければならないです。精錬という工程、processを経たなければならないです。
信徒の皆さんの中には、今このprocessの中にいらっしゃる方々もいるかもしれません。子供たちの問題、経済的な問題、また人間関係の問題など、いろんな問題で、今まで持っていた考えと価値が捨てられ、溶けられる、このprocessの中にいらっしゃる方々もいるでしょう。大変です。大変ですが、これ一つだけ覚えてくださいますように願います。私たちは国籍が天にある、天国の市民であることを必ず覚えてくださいますように願います。 そして私たちの中におられるキリストが皆さん一人ひとりを諦めずに、最後まで導いてくださることを忘れないでください。では、皆さん、キリストが私たちをどのように変化させて、天国まで導いてくださるでしょうか。イエス様は私たちをそこそこ適当に直して天国に導きません。皆さん、驚かないでください。私たちはイエス様と同等に変化されて天国に入るのです。今日の箇所21節です。?キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しい体を、ご自分の栄光に輝く体と同じ姿に変えてくださいます。
皆さん、私たちの卑しい体がキリストご自分の栄光に輝く体と同じ姿。これが想像できますか? さらに、驚くべきことは、このように変化されるのは、天国の市民権を持っている者だけに与えられる神様からの特権ということです。今日、この事実を覚えて、私たちが主の御前に立つ、その日まで、互いに励まし合い、互いに愛し合う東京教会の信徒皆様になることを主の御名によって祝福します。