<あなたのみこころがなりますように> マタイの福音書26:36~46 2026年2月1日

 イエス様と弟子たちは、最後の晩餐を終えて、ゲツセマネの園へとやってきました。ヨハネ18 章 2-3 節では、このゲツセマネの園は、イエス様と弟子たちがよく集まっていた場所だと書かれています。そして、イエス様は少し離れたところで祈るために、多くの弟子たちを待機させて、またペテロ、ヤコブ、ヨハネの 三人を連れていきました。そこで、イエス様が、急に感情を表します。

“イエスは悲しみもだえ始められた。わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。”

(37,38)

 イエス様が言っていた“時”が、いよいよもうすぐそこまで迫ってきた時に、イエス様は悲しみました。イエス様は、言葉で説明できないほどの悲しみと悲痛を感じていました。罪に定められる事柄が一つもないお方なのに、私たちの罪を背負って十字架にかからなければならない使命と向き合い、辛く悲しみに打ちひしがれる思いだったのではと思います。ここにイエス様の人間の性質を見ることができるのです。イエス様はその感情を心に留めて 1 人苦しんだ・悲しんだのではなく、感情を言葉にして三人の弟子たちに伝えました。

 イエス様がこれほどまでに悲しんだ理由はなんでしょう。私たちの罪と痛みを背負わされ、父なる神から断絶されるからです。子が父から見放されるその悲しさ、恐ろしさは計り知れないと思います。

 そして、イエス様の十字架の死について、イザヤ書でもこのように預言されています。

4 まことに、彼は私たちの病を負い、 私たちの痛みを担った。 それなのに、私たちは思った。 神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。

 5  しかし、彼は私たちの背きのために刺され、 私たちの咎のために砕かれたのだ。 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、 その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。(イザヤ書53:4-5)

“それなのに、私たちは思った。 神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。”

 (4)とあるように、私たち人間は、イエス様が勝手に十字架にかかり、勝手に苦しんでいる私たちには全く関係のない出来事だと思っていたのです。そのイエス様の悲しみと苦しみの根源は、他の誰でもない私たちの罪なのに、それに気づかず歩んでいる私たちがいました。そして、私が受けるべき苦しみと悲しみ、そして主からの断絶という呪いを受けて、私たちがそれから癒されるために、イエス様は十字架にかかられたのです。今日、私たちをかばい、苦しんだイエス様がいることを覚えてください。だから、誰も私の苦しみ、悲しさなんてわからない、理解してもらえないと思ってしまいそうな時も、その苦しみと痛みを担ってくださったイエス様を覚えてくださったらと思います。

イエス様の主への祈り

そして、そのイエス様は一人離れた場所へ行き父なる神に自分の心の思いを打ち明けます。

イエス様の祈りは、 “できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。”

 杯は、旧約聖書の預言者が、神の怒りと裁判の意味に用いました。イエス様も、ここでは、神の怒りを杯として表現しておられます。「できることなら、私はあなたの怒りの裁きを受けたくないです。イエス様が父なる神様の前に願われていることです。」と、罪を背負って十字架の死を迎えることがいよいよ現実味を帯びてきた時に、御心を行いたいと願いながらも、自分が受ける神の裁きの恐ろしさ、人間的な限界を感じていたのだと思います。「イエス様は、神様が全能の主であられるので、できることなら本当に神様の怒りを取り去られるだろうと知りつつも、自分の思いではなく主の思いが成りますように、と祈りました。イエス様は自分の悲痛な思いの中でも御心に従いたいと告白しました。

 私たちも、このイエス様のように主の御心と自分の思いに大きなギャップを感じる時があります。御言葉の通りにこのように従いたいけど、このやり方の方が自分や周りの人を助けられるけど、という日常的なものから、仕事や学校での経験、家族・親戚との関係、教会の中で、主の御心を行いたいと思いながらもそれに対するリスクが大きすぎて抱えきれずに、結局、御心に従えない自分もいると思います。自分の抱えている問題と大きさは違うかもしれないけれど、イエス様も同じような葛藤の中にいたのがわかると思います。この杯を過ぎ去らせてください、と自分のありのままを父なる神に告白したように、まず、自分の思いを主に告白することをイエス様 から見習うことができるのではないでしょうか。

 そして、主が望まれるままにしてください、と自分の思いを手放してイエス様の御心が成就するように祈ったように、私たちも自分の欲や意志が叶うように祈る祈りではなく、主の御心が、御計画が、最善がなされるように祈るようになれたらと思います。そして、イエスは 2 回目の祈りを主に祈りました。また、3 回目も 2 回目と同じように祈ったと書いてあります。

 42 節 「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」最初の祈りとの違いは明らかです。イエス様は神の怒りを自分が受けることを通してでしか神の救いの御計画が実現しないことを、神様と過ごす祈りの中で確信していったのだと思います。イエス様は祈りを通して、悲しみや恐れが取り除かれ、杯を、イエスご自身の召しとして受け取る覚悟が出てきたように見えます。「過ぎ去らないのであれば」は、最初の祈り「できるのであれば」との対比であり、今回は過ぎ去らないことを前提として主に告白をしています。そして、あなたの御心がなりますように、と祈ります。まさに、この時に、主の祈りに示された模範的な祈りを自ら主の前で祈っておられるのです。

 みなさんも、神様と過ごす祈りの時間の中で、自分の願いや思いが変えられていく経験はありますでしょうか。自分で握っていた思い・考えが祈りによって主の思いへと近づいていき、御心に従えるように心が整えられていくような感覚です。そして、主の御心を行えるような心と、必要なもの全てを備えてくださり、信仰を持って歩む道を王位してくれます。今まさに決断する狭間にいる方もおられるかもしれません。引き続き、御言葉を読み、祈り、主と過ごす時間の中で、その決断が主の御心であるように、また御心がなりますようにと祈れるようにお祈りしたいと思います。そして、それを実際に行い、御心に従順となれるようにお祈りしたいと思います。

ヘブル人への手紙 5:7 

7  キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。 

 ヘブル人への手紙 5 章 7 節には、イエス様がささげられた祈りと願いが聞き入れられました、とあります。イエス様はこの悲しみの中でも御心に従い、十字架の死に至るまで従順でした。そして、それで終わりではなく、死に勝利し引き上げられ、神の右の座につかれました。主から切り離され、罪を背負い従順に十字架につけられたイエス様は最終的には、大勝利をおさめました。完全なものとして、神の右の座についておられるのです。

 イエス様の姿を通して、皆様に主が語ってくださったことはなんでしょうか。うちあける祈りを通して主が心を整えてくださり、御心を行えるように、その従順を与えてくださいますようお祈りします。主の御心と御言葉を黙想し満足する信仰ではなく、行動に移す信仰と従順さを与えてくださるようにお祈りします。

イエスの弟子たちへの願い 

 イエス様はこの時、弟子たちに目を覚ましていなさいと伝えます。これは、一緒に祈ってくださいという意味に近いのではないかと思います。イエス様が悲しみもだえ、うちひしがれているとき、ペテロとヤコブとヨハネに一緒にそばに来て祈ってほしかったのです。しかし、三人は、イエスが様子を見に戻った 3 回とも眠っていました。ルカの 22 章 45 節には、悲しみの果てに眠り込んだと書いてあり、おそらくイエス様の悲しんでいる姿を見て悲しみ、その精神的・肉体的な疲れで寝てしまったのだと思われます。弟子達は、主イエスと共に祈る最後の機会も逃しました。そして、3 回とも眠り、イエス様に従えなかった様子が、これからペテロが 3 回イエス様を否定することの前兆を示しているようです。イエスに従順になれない弟子たちの弱い姿を見るからこそ、すぐそばで、祈りを通して従順に主に従うイエス様の姿が浮き彫りになってきます。

 イエス様は私たちを友と呼びます。私たちとともに働き、私たちを通してこの地に御心をなそうとしているイエス様と一緒に、目を覚まして祈るよう招かれています。また 41 節には、なぜ祈るのかについて、「誘惑に陥らないように目を覚まして祈っていなさい」、と書いてあるとおりです。イエス様から自分を引き離そうとする誘惑は、自分の身の回りにあふれています。その誘惑につまづくことのないよう祈らなければなりません。そして、イエス様が天に昇り、またイエス様がもう一度来られる再臨の時を私たちが待っている今も、目を覚まして祈り続けなければなりません。 皆さんは目を覚まして祈られていますでしょうか? それとも弟子達のように眠ってしまっているでしょうか?