1.背景としての時期と場所
(1)時期は種無しパンの祭り、過ぎ越し
種無しパン祭りはイスラエル民がエジプトから解放されたことを喜ぶもので、彼らの最大の祝祭です。一週間行われるもので、全国から、全世界から毎年大勢の人が集まりました。種無しパンの意味はエジプトから解放されて荒野で、種無しパンを焼いて食べたことを記念するための祝祭です。パン種で発酵した美味しいものを焼いて食べれば良いのに、どうして生の生地のままの美味しくないものを食べたのでしょうか? その理由はパン生地に発酵の種を入れる事すらできないくらい急いでエジプトから出てきたので、それを記念するための祝祭です。そして、種無しパン祭りの最初の日が過ぎ越しであり、過ぎ越しの日は各家庭が子羊を屠って、夜に記念式を行いました。過ぎ越しはユダヤ人のお正月であり、独立記念日です。皆が集まる最大なお祝いなので、エルサレム城内は人々でいっぱいになりました。
(2)場所はエルサレム
今日の箇所に都と書いてありますが、エルサレム城内を意味します。エルサレムは高い山に建築されていて、城壁ある城です。敵からの攻撃を防ぐためなので、エルサレムの周辺は谷が多いです。エルサレム城内に入るためにはいくつかの城門を通ります。都と言っても城壁に囲まれていて、これ以上は面積が広がらないところです。全体面積が狭いので、エルサレムの中に住まいを持っている人は限られていました。ですから、エルサレムは毎日出入りする人が多いです。住まいはエルサレムの外ですが、仕事のためにエルサレム城内に入り、夕方になると再び、エルサレム城内から出ていきました。イエス様も最後の一週間、毎日、エルサレム城内を出入りされました。
2.安全な場所と時期
(1)イエス様にとって安全な場所と時期
イエス様にとって安全な場所はエルサレム城内です。エルサレム城内にはイエス様の味方となってくれる大勢の群衆がいました。過ぎ越しの時期になると全国から来ている訪問者がエルサレムに溢れました。彼らはイエス様の奇跡、教えに感動していたので、イエス様の味方となる人たちです。群衆が怖くて、過ぎ越しにはイエスを殺さないようにしようと祭司たちが我慢するくらい過ぎ越しはイエス様にとって安全な時間です。エルサレムの城内はイエス様にとって安全な場所です。人間の予想ではイエス様がこの過ぎ越しの時期死ぬ確率は非常に低いです。しかもエルサレム城内で死ぬ確率はさらに低いです。
しかし、主なる神がなさるこれからのことは正反対でした。エルサレムの外が安全で、エルサレムの中が危険です。イエス様は子羊が屠られる過ぎ越しの日の夕方にエルサレムに入りました。普段の時は屠られる子羊とイエス様は何の関係も無いので、危険ではありません。しかし、この日は屠られる子羊がイエス様ご自身です。過ぎ越しの夜、引き裂かれる子羊はイエス様のご自身の体です。過ぎ越しの夜、流される子羊の血潮はイエス様のご自身の血潮です。イエス様ももちろん、これらのすべての事を覚悟した上でエルサレムに入られました。
12節を見るとその朝、イエス様と弟子たちの居場所はエルサレムの外でした。その日の夕方、イエス様はまだエルサレムの中にいました。今までのスケジュールだと昼はエルサレムの中で、夜はエルサレムの外で過ごしました。しかし、その日は反対に、朝はエルサレムの外で、夜はエルサレムの中で過ごしました。つまり、イエス様は安全であるエルサレムの外から、安全ではない場所であるエルサレムの中に入られました。
イエス様にとって過ぎ越しは一番安全な時期でした。
イエス様を殺そうとしていた人たちが今度の過ぎ越しはやめておこうと決めたので、過ぎ越しには何も起こらないはずでした。しかし、一番安全だと推測されたこの過ぎ越しの日にイエス様は十字架刑になりました。イエス様は一番安全な時期である過ぎ越しの時、一番安全な場所であるエルサレムで十字架にかかりました。もちろん、イエス様もこれらのすべての事を全部、覚悟の上、ご承知の上、従いました。
(2)イスカリオテユダの安全な時期と場所
イスカリオテユダはずっとイエス様と一緒に行動していました。イエス様と一緒に一日を過ごしました。エルサレムの外にいる時も一緒、エルサレムの中にいる時も一緒、最後の晩餐も一緒でした。イエス様と一緒にいるところが一番安全な場所です。彼は一番安全な場所であるイエス様といつも一緒にいました。
しかし、彼は最後の瞬間、イエス様から離れました。エルサレムに入城する時、11人の弟子とイエス様と一緒でした。しかし、最後の晩餐が終わって、皆でオリーブ山へ出かける時、イスカリオテユダはそばにいません。イスカリオテユダは一番安全な場所であるイエス様から離れて、大祭司のところに行きました。彼は人生の一番安全な場所であるイエス様を捨て、危ない大祭司のところに行きました。彼は人生の一番安全な人であるイエス様捨てて、危ないお金を選びました。
イスカリオテユダにとってイエス様と一緒に過ごしていた時間が一番安全な時でした。
エルサレムの外でイエス様と過ごしていた時間、エルサレムの中で弟子たちと一緒に食事していた時間が一番安全な時間でした。しかし、彼は一番安全な時間の中、一人だけ別の時間を過ごしていました。一日中、ずっとイエス様を大祭司に引渡す機会を狙っていました。このタイミングにしようか、あのタイミングにしようか、この場所でしようか、あの場所でしようか? すでに大祭司からお金はもらってしまったので、24時間ずっとイエス様を引き渡す時期をうかがっていました。
丁度、その時、イエス様の衝撃的な一言を聞きました。
18節「・・・あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ります。」
これを聞いた瞬間、イスカリオテユダはしゃくりをしたと思います。(個人の推測) あまりにも急激に驚きますと人はしゃくりをします。イスカリオテユダはあまりにも急激に驚いたので、イエス様を引き渡す時期ばかり考えていたので、あまりにも突然、この話を聞いたらしゃくりが出るでしょう。
(3)私たちの安全な時期と場所
私達にとって一番の安全はどこでしょうか? イエス様でしょうか? 本当にそう信じていますか? 他ではありませんか? 正直にお金を一番安全な場所だと認識していませんか? 子どもが一番頼りになる安全な居場所だと認識していませんか? 私達は正直に、今までイエス様以外の安全な場所を探していました。この世の人達が求めているものを私たちも求めました。しかし、いろいろ失敗して、失望して、がっかりした後イエス様のところに戻りました。最終的にイエス様に戻ったら大丈夫です。
私達にとって一番安全な時期はいつですか? イエス様の共に歩むときですか? 本当にそのように確信していますか?
3.わたしの体、わたしの契約の血
わたしの契約の血には契約と言う単語がついていますが、わたしの体には契約と言う単語がついていません。マルコは契約の体とは言っていません。旧約から契約は血だけです。レビ記によりますと命は血の中にありますので、血が命の象徴です。しかし、体が裂かれてから、血が流されるので、体と血は一つです。
イエス様は最後の晩餐を通して新しい契約を結びました。過ぎ越しも最後の晩餐、イエス様の晩餐も最後の晩餐です。過ぎ越しはエジプトの地で食べた最後の晩餐です。エジプトの奴隷から解放されて、自由になるためにエジプトにおいての最後の晩餐です。イエス様の最後の晩餐は私達を罪から解放してくださるための新しい儀式です。私達はイエス様の最後の晩餐を毎月の聖餐式を通して行っています。
聖餐式の食パンとぶどうジュースには私たちの罪をきよめる成分がありません。聖餐式は儀式なので、食パンを食べ、ぶどうジュースを飲みますが、その式の中、イエス様の約束を信じますと言う信仰告白が必要です。イエス様の約束はこれらのみことばです。
22節「取りなさい。これは(多くの人のために裂かれる)わたしのからだです。」
24節「これは、多くの人のために流される、わたしの契約の血です。」
イエス様の契約のみことばがイエス様と私達を一つにしてくださいます。契約のみことばの効力によって私たちのすべての罪を赦してくださいます。契約なので、新しく更新されるまではいつまでも契約が続きます。過ぎ越しの契約から、聖餐式の契約に更新されました。聖餐式の契約はこの地上で、今も続いています。私達はイエス様の契約のみことばを信じて、これからも元気に、安全に生きましょう。イエス様と一緒にいるところが一番の安全です。イエス様と一緒にいる時間が一番の安全です。
