新しい年を迎えました。新しい年をくださいました主に感謝します。2025年から2026年に変わりました。年齢も一つ増えました。
しかし、生活は去年と何も変わっていません。一日のスケジュールも去年と全部同じです。生き方も去年と同じです。いろいろ変わっているものもあれば、何も変わっていない部分もあります。私達は新しい年、新たな気持ちで、生き方を変える時があります。本人の決心で変わることもあれば、外部からの力で変えさせられることもあります。今日の箇所のイスラエルの民は今までの生き方を捨てて、新しい生き方に変わらざるを得ないことになりました。私達はいかがでしょうか? 主の導きにより、今までの生き方から変わらざるを得ない時、私達は変わりますか、変わりませんか。
1.「エジプトの地」のような生き方
今日の箇所でイスラエル民は荒野にいます。今まで生活して来たエジプトからは離れました。エジプトに帰ることは出来ません。けれども、まだカナン地には入っていません。新しい地の生活はまだ始まっていません。イスラエル民は荒野で、生き方が変わろうとしています。以前の生き方は捨てて、新しい生き方に挑戦しています。これから、新しい生き方に慣れれば主の恵みの中、カナン地で、幸せに暮らすでしょう。しかし、新しい生き方に慣れなければ、カナン地に入ったとして不幸が待っています。
今までのエジプトの地においての生き方を現す表現が10節にあります。
「エジプトであなたは、野菜畑でするように、自分で種を蒔き、自分の力で水をやっていた」
ナイル川の周辺を想像すると野菜畑は平らなところにあります。耕しやすいところにあります。大きなナイル河が渇くことはありません。いつでも、いくらでも水やりができるところです。ですから、ナイル川は皆にとって神のような絶対的な存在です。エジプトに住んでいたイスラエル民もナイル川は絶対的な存在でした。絶対的なナイル川さえあればいつも安心です。自分で頑張れば生きていけます。自分で一生懸命働いて、種を蒔いて、真面目に自分の力で水やりすれば生活できます。ナイル川を信じる生き方、自分の力と努力で一生懸命生きる生き方で、イスラエル民は生活しました。400年もこのような生き方をしてきたので、他の生き方は考えられません。エジプトに生きる限り、このような生き方はいつまでも続きます。自分で働いて、自分の力で生きる、私達も現在このような生き方なので、慣れている生き方です。
この地上のほとんどがエジプトのような生き方をしています。去年に引き続き、今年も自分の力、自分の努力で、今年も一生懸命頑張るでしょう。私達も実はエジプトの生き方に慣れています。分かりやすい生き方です。自分の努力次第です。
2.「カナン地」のような生き方
カナン地はエジプトとは全然違う立地状況です。山と谷があります。ナイル川のような大きな川もありません。ガリラヤ湖の水源はありますが、それ以外は天から降る雨に頼らないといけません。天から雨が降りますと土地は潤います。種を蒔く前に雨が降りまして、種まきをしました。成長期に合わせて雨が降りました。
しかし、雨が降らなければエリヤ時代みたいに3年間雨が降らない飢饉もありました。雨が降る、降らないは単なる自然現象ですが、イスラエル民にとっては単なる自然現象だけではありません。イスラエル民が主なる神に従うかどうか関係しています。
8・・「私が今日あなたに命じるすべての命令を守りなさい。それは、あなたがたが強くなり、あなたがたが渡って行って所有しようとしている地を所有するため、」
9・・「乳と蜜の流れる地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。」
イスラエル民がカナン地で平和の中、長く幸せの生活をするためには神に従う生き方ではないといけません。常に神を意識しながら生きる生き方を求められました。
12・・「年の初めから年の終わりまで、あなたの神、主が絶えずその上に目をとどめておられる地である。
「主が絶えずその上に目をとどめておられる地」は良いことでしょうか、悪い事でしょうか? 良い意味では主がいつまでも目をとどめてくださるから安心、安全です。
悪い意味で受け止めると主が絶えずその上に目をとどめておられないと危ない地である意味になります。イスラエル民が主から離れて、自分勝手な生き方をするといつでも安全、安心、平和は無くなることです。士師記から始まるイスラエルの長い歴史がそれを証明しました。イスラエル民が神から離れると直ぐ、侵略され、平和は無くなりました。
私達は「主が絶えずその上に目をとどめておられる地」のことを悪い意味で受け止める可能性があります。常に主に監視されている気分になるでしょう。常に主なる神を意識しないといけない生き方よりは自由に考え、自由に生きる生き方が良いと考えています。エジプト時代のように、自分で働いて、自分の力を発揮して、ナイル川みたいに未来が予測できる生き方を好みます。ナイル川を頼りにする生き方は目途が立ちます。ナイル川の水量が増える時期、減る時期に合わせて前もって準備できます。
しかし、カナン地はいつ雨が降るのか、目途が立ちません。大体は雨が降る時期がありますが、天から100%必ず、雨が降るかと言うと確証はありません。雨が降らなければ、他に打つ手がありません。神の全能の助け以外はなすすべがないことです。ですから、このような極端な生き方は、人間であるなら大体嫌がります。それでも、主なる神は荒野にいるイスラエル民に主なる神を頼りにして生きる生き方を求めておられます。
主なる神は2026年を迎えている私達にも同じことを求めておられます。主なる神は2026年だけではなく、実は2025年も、2024年も同じく主なる神を信じて生きる生き方を求められました。しかし、私達には慣れてない生き方なので、嫌がっていました。私達には怖い生き方なので、恐れていました。それでも主はこれからもずっと2027年も、2028年も信仰による生き方を求められるでしょう。私達が変わるまでずっと求められます。主なる神が生きておられることをこの地で体験するために信仰によって生きる生き方に変化する必要があります。
受ける教会から与える教会は基本的な生き方を変えることです。キャッチフレーズだけでは変わりません。教会の生き方を変えないと自然には変わりません。毎年教団援助金を1万円削減してみましたら、生きる道が与えられました。
東京教会の主任牧師はイエス様です。自分は副牧師です。キャッチフレーズだけではなくて、実際の牧会をイエス様に委ねています。教会財政、人事、タイミング、大事な決定、スケジュールの添削などをイエス様にお任せしています。これは自分にとって今までの牧会のやり方を根本的に変えることです。イエス様が主任牧師になってから心理的な負担が軽くなりました。イエス様が指示なさると自分も頑張りますが、動きがあまり無いと自分も待機の状態で待っています。皆様の基本的な生き方も変わるようにメッセージを通して道案内をしています。
教会のバイブルリーディングの中、ルカ15章の二人の息子たちの生き方を見ました。次男は人生を失敗してから生き方を急に変えました。今までの生き方を捨てて、父に従う生き方に変わりました。今までは放蕩息子で堕落していた生き方でした。しかし、途中、大変な痛い目にあってから変わりました。これからはお父さんを大事にして、お父さんのために懸命に働くことを決心しました。生き方が変わったので、それで良かったです。
しかし、長男は変わることを拒みました。今まで真面目に働きました。まるでしもべのように一生懸命働きました。今まではそれでも良かったです。息子のようで、しもべのような、父のため働きましたので、それでも良い生き方でした。
けれども、これからも、しもべとして生きるつもりでしょうか? 長男はここで人生の転換期を迎えたのに、ここでしもべから長男に変えないといけないのに、生き方を変えようとしません。次男は放蕩の息子から父に従う、愛する息子に生き方を変えたのに、お父さんも長男として、愛する息子として明確にしているのに、せっかく、家族皆が新しい生き方に変わろうとしているのに、長男は今まで通り、しもべのような生き方を続けようとしています。長男は今こそ、幸せな、生きがいのある生き方に変わるチャンスなのに、しもべのように、自分の力で、自分の努力で、自分の生き方で貫こうとしています。 愛する信徒の皆様はいかがでしょうか? 今までのように自分の力、自分の努力で生きる生き方を続けるつもりでしょうか? 今までの失敗や人生の嘆きを十分味わいましたので、これからは新しい生き方である主に全部委ねて、主と共に歩む生き方に変わるのでしょうか? 今年中、変わるのでしょうか? また、再び来年に持ち越すことになるのでしょうか?
