<家族(教会員)との関係 > コロサイ人への手紙 3;18~4;1  2025年12月28日

 コロサイ教会は公の礼拝堂があるわけではありません。一つの家庭の中にミニ教会、言わば家庭教会です。コロサイ教会だけでなく、コリント教会、ガラテヤ教会、エペソ教会、ピリピ教会など大体同じ状況でした。現代も家庭教会を広げる牧会のやり方があります。

 家庭教会なので、教会員と言っても家族中心の教会です。教会員が家族であり、家族が教会員です。今日の箇所は家族関係を現す単語が多いです。妻、夫、子ども、父、奴隷、主人。これらの単語は家庭内の関係を表すものですが、同時にコロサイ教会なので、信者同士の関係を表す単語でもあります。

 コロサイの手紙だけでなく、エペソ人への手紙にもこれらの単語は登場します。エペソ人への手紙には戒めが長いですが、コロサイ人への手紙は簡素化しています。戒めが一つの単語だけで、短いです。詳しく見てみましょう。

1.夫婦関係

(1)妻たちよ従いなさい(18節)

従うことは服従することです。主に従うかのように従うことです。コロサイの手紙には夫に従いなさいと簡潔に言っているので、反感を感じます。理由も説明しないで、単に従いなさいです。ですから、私達はエペソ5章からその理由を詳しく知りたいです。

エペソ5章

22妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。

23キリストが教会のかしらであり、ご自分がそのからだの救い主であるように、夫は妻のかしらなのです。

24教会がキリストに従うように、妻もすべてにおいて夫に従いなさい。

33・・・妻もまた、自分の夫を敬いなさい。

 夫婦は同じ人格ある同等の関係なので、妻が夫に従う根拠がありません。しかし、キリスト者は信仰の故に従います。信仰の故にイエス様に従うように、すべてにおいて、夫に従います。従うイメージが具体的に何かを説明するためにパウロは敬いなさいと言いました。実際の夫婦関係を見ると確か、妻は愛を求めますが、夫は尊敬を求めています。妻は尊敬の形で夫に従います。奴隷のイメージで従うのではなく、尊敬するイメージで従います。

(2)夫たちよ、愛しなさい(19節)

 妻がすべてにおいて夫に従う関係であるなら、夫は主人になります。妻はしもべになるのでしょうか? 夫は妻を支配する関係でしょうか? 違います。聖書の教えは支配ではなく、愛しなさいです。とても理解できない複雑な関係です。

 妻の服従と夫の愛が互いに共存できますか? 愛と愛の関係であるなら理解しやすいです。服従と支配の関係であるならまた、理解しやすいです。しかし、服従と愛の関係は珍しいので、直ぐは理解出来ません。私達がこの世で見たこともなく、聞いたこともない不思議な関係です。

 夫への命令はキリストが教会を愛しているように愛しなさいです。キリストの愛は教会のために命を献げる愛です。自分の命の代わりに身を献げる愛ができますか? 自分の妻を自分のからだのように愛することを意味します。自分の妻を自分と同じように愛することがこの箇所の意味です。

 この世の夫婦とキリスト者の夫婦には違いがあります。キリスト者夫婦の間にイエス・キリストがいます。この世の普通の夫婦の間にはイエス・キリストはいなくて、夫婦の愛だけあります。夫婦の愛すら無くなれば、ただ一緒に暮らしているだけで、心は他人と同じです。キリスト者夫婦の愛はキリストを通して行ったり、来たりします。キリスト者夫婦のコミュニケーションはキリストが間に入って行ったり、来たりします。キリスト者夫婦の忍耐はキリストから学んだ模範からです。キリスト者夫婦の間にはイエス様が入っています。

 妻はキリストにすべてのことに服従するので、その延長線で夫に服従します。夫婦の間にイエス様がいなければ夫に服従することもないし、できません。夫もキリストを愛しますので、その延長線で妻を愛します。夫婦の間にイエス様がいなければ妻を自分のように愛することもしないし、できません。夫婦の間にイエス様がおられるので、服従することもできるし、愛することもできます。

2.親子関係

(1)子どもたちよ、従いなさい(20節)

 3章18節の「妻たちよ。夫に従いなさい」と「子どもたちよ、両親に従いなさい」。日本語では同じく「従いなさい」ですが、単語が違います。「子どもたちよ、両親に従いなさい」と「奴隷たちよ、すべてのことについて主人に従いなさい」は単語が同じです。夫婦関係と親子関係は同じ家族関係ではありますが、やはり違う関係です。夫婦関係は二人の中で順番があります。夫が先で、責任も先で、秩序において先です。家庭を監督する責任、家族を導く責任が先です。その順番を認め、服従するのが妻です。

 親子関係は親の言うことをちゃんと聞いて、従うのが子どもの役目です。従うことは外面だけでなく、心から従うことです。心から従うことはまず、耳でちゃんと聞いて、頭で理解して、心から納得して、従うことです。親の言うことはうるさいからと言って最初から耳を閉じて、心も閉じて、口だけ「はい、はい、分かった」は聞き従うことではありません。親はいつもうるさいから言われたことは聞きたくないでしょう。けれども、親に喜ばれる人になることが、未来、主に喜ばれる人となります。

 まきばの皆様の考えでは、親に喜ばれることはしたくないと思っているかも知れません。恥ずかしいから、ママボーイになりたくない、親に言われるばかりの人になりたくない。これらの理由は正しいです。しかし、親に喜ばれることが主に喜ばれるケースが多いです。皆様も試してみてください。親に喜びとなることをやってみてください。大体、主に喜ばれることになります。

 親に従うことで、主に喜ばれることになると次のような祝福があります。

エペソ6:2-3

「あなたの父と母を敬え。」・・・「そうすれば、あなたは幸せになり、その土地であなたの日々は長く続く」という約束です。

(2)父たちよ、苛立たせてはいけません(21節)

 親は何でも子どものためにやっています。小口が多いことも、細かいことまで干渉することも全部子どもためです。しかし、子どもはそれが嫌いです。親は子どもを苛立たせることが多いです。子どものためなのに、結果は子どもを苛立たせています。

 その理由はなぜでしょうか? 親も罪人だからだと思います。全部子どものためですが、その裏には親のためです。自分の子どもが天の神さまより大事になっているからです。自分の子どもではありますが、最終的には神の子どもです。神の子ども達であると言う認識が強くなると苛立たせることも減ると思います。

3.労使関係

(1)奴隷たちよ(22節)

 ピレモン書を参考にして読むと現実的に見えます。「人のご機嫌取る」ことは主人の注意をひきよせるために仕えることです。仕事そのもののためでもなく、神を喜ばせるためでもなく、彼自身の良心のためでもなく、主人に仕事をしているふりをしてだけのことです。うわべだけの仕え方も同じことです。仕事をしているふりをするのではなく、主を恐れつつ、真心から従いなさいと言っていますが、イエス様に仕える具体的な方法が主人に仕える事です。仕事を熱心にやりますが、その理由が信仰です。イエス様を信じているから、仕事を熱心にやることに報いがあります。

 仕事を熱心にすれば主人から多くの給料をもらいます。しかし、それよりも大きな報いが天からあります。地上の主人に熱心に仕えたら、御国の祝福を受けます。職場が宣教の現場である概念はここから生まれました。私達が現在やっている仕事が神の仕事であり、私たちの職場が神の祝福の現場です。

(2)主人たちよ(4章1節)

奴隷に対して正義と公平を示しなさい

 主人と奴隷は上下関係です。奴隷は主人から悔しい思いをすることが多いです。主人が奴隷の命を左右します。 主人は権利があるので、奴隷に対して正義と公平を示すことは難しいです。いくら公平に扱っても奴隷は不公平を感じます。信仰がある主人は神の正義と公平が求められます。主人もいつかは天の真の主人に報告する日があることを忘れてはいけません。主人たちが考えて、私も天に宇宙の主人を持つと思うなら、奴隷に対して正義と公平を示すことになります。