イエス様がお生まれになった時の風景を代表するものが飼い葉桶です。クリスマスを代表するワンシーンです。宿にはすでに客がいっぱいだったので、ヨセフとマリアが泊まるところは一つもありません。皆様は飼い葉桶で生まれたことと宿が無いこととどちらが印象的でしょうか? 多分、飼い葉桶が印象的なので、今までは飼い葉桶に目が留まったと思います。教会のクリスマスと言えば飼い葉桶であって、宿ではありません。
ルカの福音書は低くなったイエス様を強調するので、飼い葉桶を強調することも良いでしょう。飼い葉桶を強調するとこの地の一番低いところに生まれたメシアを強調することになります。今までは飼い葉桶中心のメッセージをたくさん聞きましたので、今日は宿に泊まるところがないことを中心に考えてみたいと思います。
ベツレヘムは小さい田舎です。元々田舎なので、宿らしい宿は無かったと思います。ヨセフとマリアは到着が遅れたので、彼らが泊まるところはありません。すでに他の客でいっぱいになりました。いくら限られた宿屋だとして、いくらすでに客が入っているとしても、この夜は緊急事態です。赤ちゃんが生まれる直前です。緊急事態なのに、一つの部屋を用意することすらできないことでいろいろ示唆することがあります。
*ヨセフとマリアの身分の低さと貧しさ。
*とても困っている隣人を顧みられる余裕がない殺風景の社会。
*人数にも入らない子ども人権の低さ。
イエス様がお生まれになる時、宿屋がないことはとても象徴的なことです。彼らのメシアが来られましたが、人々は彼らの救い主を受け入れられる空間が一つもないことを象徴します。ヨハネの福音書のバージョンで考えると彼らのメシアが来ましたが、彼らは受け入れなかったことです。
ヨハネの福音書1:11
「この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。」
ヨハネの福音書にはイエス様の誕生の物語がありません。その代わりに創造主がこの地に来られたのに、彼らの民が受け入れなかったと指摘しています。メシアを受け入れる意味は心の中に受け入れることです。心にいろいろのものがすでに入っているとイエス様を受け入れることができません。
宿屋に客がすでにいっぱい入っていたので、これ以上、新しい客を受け入れるところがありません。新しい客が例え、これから生まれる赤ちゃんでさえ受け入れることができないと拒否しています。客がいっぱいなので、イエス様を外に追い出しました。イエス様が部屋で生まれるためにはすでに部屋の中に入っていた誰かが部屋から出て行かないといけません。
イエス様が私たちの心の中に入れないように拒否しているのは今も同じです。私達の心の中にすでに、いろいろの者が入っていて、いっぱいです。皆様の心の中に現在誰が入っていますか? 皆様の心の中に現在、何が入っていますか? 心の中にすでにいろいろの者が入っています。
私達の心の中には家族が入っています。心の中に子どもが入っています。心の中に愛する子どもが入っていることは良いことです。心の中に子どもは入っているのに、夫は入っていないなら、それは深刻です。心の中に元々入っているはずの夫が入ってないとこれから問題になります。夫を子どもに入れ替えたことになります。そうなると子どもとの関係もおかしくなります。
心の中に家族は入っているのに、イエス様は入ってないことはどうなりますか? 心の中に家族が入っていることは良いことですが、イエス様が入るところがないと問題になります。家族とイエス様と入れ替わったことになります。そうなると家族との関係もおかしくなります。家族への関心を減らして、イエス様を迎え入れる心の部屋が必要です。
私達の心にお金がいっぱいで他のものは入れる隙間がないのであるなら、大丈夫でしょうか? 私達は友達との関係で心はすでにいっぱいであるなら、大丈夫でしょうか? 私達の心の中に現在、何が入っていますか? この世のものがいっぱいで、イエス様が入れる隙間がまったく無いのであるなら、心の平安はありません。天には栄光、地には平和ですが、イエス様が入ってないと平和はありません。毎日、心配、不安ばかりです。
主なる神は私達人間をお造りになってから、私たちに心をくださいました。人間には体と心があります。体は食べ物で元気になりますが、心は主なる神との交わりによって元気になります。主なる神は私たちの心を求めておられます。
神の住まいが神殿になったり、教会になったりしましたが、最後は人の心が神の住まいです。人の心がイエス様の住まいです。イエス様を信じる意味は私たちの心の中にイエス様の住まいを用意することです。イエス様の住まいが天国です。天国は私たちの心の中にあります。イエス様の住まいを用意するためには心の中に入っている既存の何か一つを押し出さないといけません。
まるで、宿屋を一つ空けるため、一人の客に譲ってもらうしかありません。同じくイエス様を私たちの心の一軒に受け入れるためには私の心にある大事な何かを諦めないといけません。すでに心の中に入っているもの全部を握りしめているとイエス様が入れる隙間はありません。イエス様を心に受け入れることは簡単なことですが、その代わりに大事な何かを諦めることはとても難しいです。ですから、ほとんどの人々はイエス様を拒否します。イエス様を退けることはすべてを失う結果となります。しかし、イエス様を受け入れ、すべてを諦めることはすべてを頂く結果となります。なぜなら、イエス様が全部持っておられるからです。私の命、お金、成功、幸せを始め、全部、イエス様が持っておられます。愚かな人は命、お金、成功、幸せを握りしめるために、イエス様を追い出しますが、逆にイエス様を追い出してしまうと握りしめていたものが全部無くなります。
ですから、自分はイエス様以外、全部諦められるように心の準備をしています。お金、健康、仕事、将来計画、子ども、最後は妻
これらの者は実は時間と共に私の手から離れます。惜しみながら、仕方なく手放すよりは、自ら主に手放すとそれは立派な信仰です。私達はこれから一つ一つ優先順位に従って一つずつ、手放すことになります。 今日の箇所で宿屋に空いている部屋が一つも無かったそうです。無理して部屋を一つ用意すればよかったのに。私達の心にイエス様が入れる隙間が一つも無いなら、どうしましょうか? 無理してでも、イエス様を受け入れられる用意をしますか? 今まで通り、イエス様を拒否しますか?
