イースター、おめでとうございます。クリスマスはイエス様がお生まれになった過去の歴史ですが、イースターはイエス様が現在も生きておられる現実です。クリスマスは過去の記憶ですが、イースターは私達もいつか復活する未来の希望です。
キリスト教が本物であることを証明できるのはイエス様の復活です。私達の信仰が本物であることを証明できるのも復活です。本物と偽物の区別がつかない時代となりました。私達の信仰が本物であることを未信者は求めています。私達は未来、復活を通して証明することになるでしょう。
さて、4つの福音書に書いてある復活の記事にはそれぞれ違う特徴があります。マルコ以外の福音書は復活に関する記事が1つのバージョンだけです。しかし、マルコの福音書には違うバージョンの二種類の記事があります。1-8節が一つの記事です。9-20節がもう一つの記事です。自分が使っている聖書の下にある注解を見るとこう書いてあります。
*「9-20節を加える写本は多いが、重要な写本には欠けている」
マルコの福音書も写本がたくさんあります。その中でいろいろの基準によって重要な写本と重要ではない写本を分けました。現在の日本語の聖書は重要でも、重要ではなくてもいろいろの写本を参考にして翻訳しました。重要な写本には9-20節がありません。しかし、多数の写本には9-20節を含んでいるものが多いです。現在自分が今まで見て来た聖書は全部9-20節を全部載せています。
ただし、*「9-20節を加える写本は多いが、重要な写本には欠けている」を付け加えています。
それでは1-8節と9-20節のバージョンが違いますが、その違いは何でしょうか? 1-8節も「さて」から始まります。9-20節も「さて」から始まります。1-8節には登場人物が「マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメ」3人の女性です。9-20節は「マグダラのマリア」一人だけです。1-8節には弟子たちが女性たちの証しを信じなかったことは書いてありません。9-20節には弟子たちがマグダラのマリアの証しを信じなかったことが書いてあります。1-8節はあまりにも短くて、イエス様の復活に関する情報がこれしかないのかと言いたいくらい省略し過ぎた気がします。9-20節は短い文書ではありますが、それなりにはまとまっています。
1.最初の目撃者であるマグダラのマリア
1-8節と9-20節の第一の違いははやりマグダラのマリアです。1-8節にはマグダラのマリアの過去の個人情報がありません。しかし、9-20節にはわざとマグダラのマリアの過去を記述しました。マグダラのマリアの個人情報をどこまで明らかにするのかが福音書を書いた弟子たちの悩みでした。マグダラのマリアがイエス様の復活を目撃した第一の証人であることは間違いありません。しかし、彼女の過去の事を考えると第一人の証言者にした方が良いのか、しない方が良いのか悩みました。その悩みの末、1-8節にはマグダラのマリア以外にも別にヤコブの母マリアとサロメが登場します。
しかし、9-20節は何の妥協もせず、真実だけを伝えました。
9節「彼女は、かつて七つの悪霊をイエスに追い出してもらった人」。
イエス様の復活を説明しようとするところに彼女が登場すると信憑性が低くなります。福音書を書いた弟子たちは皆、マグダラのマリアのことで悩みました。マグダラのマリアの過去は書いても良いのか、余計に書かないのが良いのか。マグダラのマリアが第一の証人なので、そのこと自体は否定しませが、福音書によって「かつて七つの悪霊」にとりつかれた人だと明らかにしたものもあれば、省いているものもあります。
マルコの福音書は同じ書物の中に二つのパターンが同時に載っています。1-8節にはマグダラのマリアが3人の中の人に過ぎません。しかし、9-20節には一人だけ強調されます。しかも、「かつて七つの悪霊」を付け加えました。マルコの福音書の写本を書いた人たちも二つのパターンに分かれました。
福音書はイエス様が復活してから、短くても30年、長くて60年以上、時間が経ってから書かれた書物です。マグダラのマリアの事を30年間、考えました。そして、弟子たちはそれぞれ、聖霊の導きに従って福音書を書きました。マグダラのマリアの過去を詳しく書いた福音書もあれば省略した福音書もあります。
2.イエス様の復活を信じない弟子たち
マグダラのマリアの事は悩みではありますが、一番気にしていたことではありません。すべての福音書が強調したことは弟子たちの中、誰一人、イエス様の復活を信じた人はいなかったことです。1-8節には弟子たちの不信仰に関することが書いてありません。しかし、9-20節は他の福音書と同じく弟子たちの不信仰を強調しています。弟子達はイエス様が直接彼らの目の前に現れるまでは全く信じていません。逆に言えば、復活のイエス様に出会ってから彼らは皆、イエス様の復活の証人となりました。不信仰と信仰の境目はイエス様の復活です。イエス様の時代も復活を信じない弟子たちが多かったですが、今の時代もキリスト者と言いながらイエス様の復活を信じない方がいます。私達は弟子たちのように私たちの目でイエス様を直接目撃することは出来ません。皆様は主イエスが生きておられることをどのように体験なさいましたか。私達の信仰が抽象的な観念ではなくて、本物である証拠は何でしょうか? イエス・キリストが本当に復活なさった証拠を私たちの生涯において探したいです。
3.証人の資格
私達がイエス様の復活の証人になるために必要な資格は私達自身ではなく、イエス様です。私達の個人的な過去、現在の能力、現在の地位ではありません。私の現在の地位を利用してイエス様の復活を証明するのではありません。自分がこの世で有名になってイエス様の復活を明らかにするのではありません。また、過去の自分の弱さのせいで、証しにならないことでもありません。イエス様の復活の証人となる資格はイエス様に出会った人です。イエス様に個人的に出会った人は誰でも証人です。
マグダラのマリアはかつて七つの悪霊に取りつかれた過去がありますが、復活したイエス様に出会ってから、立派な証人となりました。ヤコブの母マリアとサロメはその時代、女性には何の発言権も無い時代なのに、復活のイエス様に出会ってから勇敢な証人となりました。弟子達も最初は不信仰に満ちていた人たちですが、復活のイエス様に出会ってから、全世界に福音を伝える証人となりました。使徒パウロは若い時、イエス様を信じるステパノを殉教させた過去が伝道を難しくしましたが、それでも彼は異邦人の宣教師となりました。私達も信仰の体験があれば、その場で証人となります。イエス様の復活の証人となる資格は他ではなく、イエス様に出会った人たちです。私達が頑張れば証人になるのではありません。
イエス様の証人となる人はイエス様に出会った人です。もう一つはイエス様を心から愛する人です。イエス様を愛する人は主の証人となりたいと証しを求めます。証しを求める人にイエス様は証しをくださいます。皆様はイエス様からの証しを求めておられますか? 何も求めておられませんか? 自分の生涯の目標はイエス様が生きておられることをこの日本の地で証明することです。
安息日が終わって新しい一週間が始まりましたが、お葬儀がまだ終わっていませんでした。イエス様のご遺体に香油を塗る作業がまだ残っていました。イエス様が復活して新しい時代となりましたが、女性たちには悲しみが続いていました。それでも、彼女たちは生活力がありました。イエスに油を塗りに行こうと思う気力がまだありました。香料を買う生活力がありました。早朝、日が昇ったころ、墓に行けるくらいの行動力がありました。女性たちの、お母さんたちの生活力、生きる気力、行動力はいったどこから来ていますか? 全世界の女性たちの力強い生活力、お母さんたちの力強い生活力はすごいものです。しかし、イエス様復活を目撃した勢いには到底及びません。 それに比べると11人の使徒たちは、体は固まって、心は凍って、心の門を閉じて何も出来なくなりました。生きる気力を失って、ぼっとしている弟子たちをもう一度奮い立たせたのは何でしょうか? 何も出来ない弟子たちを再び奮い立たせたのもイエス様の復活です。無気力の中、さまよっている私達をこれから奮い立たせるのもイエス様の復活です。私達の今後の生涯がイエス様の復活の証人となれるか、どうか。
