箴言16:1「人は心に計画を持つ。しかし、舌への答えは主から来る。」
箴言16:9「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、主が人の歩みを確かにされる。」
1.祭司長たちの思惑
祭司長たちを始め、長老たちや律法学者たちと最高法院全体は一つになりました。普段は彼らの間に権力争いがありまして、互いに牽制する関係です。しかし、イエス様を十字架刑にするために一致団結しました。彼らは朝早くから急ぎました。夜が明けるとすぐに、急いで協議しました。イエス様をピラトに引き渡し、処刑にするために罪名を何にするかを協議しました。14章までイエス様の罪名は「神の子だ」と主張したことです。これが罪名であるなら、イエス様はユダヤ人の刑罰で石投げの刑になるはずです。しかし、祭司長たちの思惑はローマの法律でイエス様を十字架刑にしたかったわけです。十字架刑にしないと暴動が起こります。一般民衆はイエス様を偉大な預言者だと認識しているのに、過ぎ越しのこの日にイエス様を殉教させたら、とんでもない暴動が起こります。
しかし、十字架刑にすると暴動は起こりません。なぜなら、木にかけられて死んだ人は神に呪われて死んだと旧約聖書を通して、昔から堅く信じているからです。そのわけで、祭司長たちはこの一日ですべてを終える思惑で夜明けから急ぎました。
罪名を変えました。マルコ14章で神を冒涜した冒涜罪がピラトの前ではユダヤ人の王と言って、ローマ皇帝への反逆罪にすり替えました。起訴する時は神への冒涜罪、裁判では反逆罪なので、この裁判は最初から不法です。
けれども、今はサタンの時間なので、祭司長たちの思惑通り、順調に進みました。タイミングも時間通り、今日一日で終わるように進めました。起訴内容もすり替えられました。十字架の死刑と判決が下った途端、死刑が実行されました。普段は無い不法が次々と祭司たちの思惑通り進みました。
2.ピラトの思惑
ピラトは普段、エルサレムには住んでいません。カイザリアというところに住んでいます。彼は過ぎ越しの時期に合わせてわざとエルサレムに来ています。エルサレムに海外から、地方からたくさんの人々が集まるので、治安が危ないです。暴動でも起きたらローマの皇帝から首になります。今まで何回か失敗があったので、もう一度小さい過ちや、暴動でも起きたら終わりです。問題になることを事前に防ぐためにわざわざ、エルサレムに来たのに、祭司長たちが大きな悩みを持ってきました。
ピラトからすればできる限り、祭司長たちの思惑に加担したくありません。ピラトの思惑はできる限り、過ぎ越しは誰も処刑したくありません。ですから、できる限りイエス様に有利な尋問をしました。「あなたはユダヤ人の王なのか」と尋問しました。反逆が頻繁に起きる地域だったので、ピラトは「ユダヤ人の王」と言う単語はなかなか使いたくありません。それでも、イエス様から有利な答えを求めて、わざと「ユダヤ人の王」と言う単語を使いました。他の人達であるなら、この質問に全員「いいえ」と言うはずです。「あなたはユダヤ人の王なのか」と尋問したのに、「イエス」と言ってしまうとまさに反逆罪で十字架になります。イエス様はここで「いいえ」と言ってしまえば、ピラトの思惑通り、イエス様は釈放となります。イエス様の答えが「あなたがそう言っています」だったので、ピラトの一回目の思惑は失敗しました。イエス様はとても不利な立場なのに、何の自己弁護もなさらないので、ピラトはますます慌てました。
ピラトのもう一つの思惑は過ぎ越しに人々の願い通り、囚人一人を釈放してあげることでした。過ぎ越しには暴動が無いようにできる限り民衆を刺激しないで、満足させるために彼自身が祭りの度にやっていました。この釈放制度をうまく利用すればピラトの思惑通りになるかも知れません。イエス様は当時、大勢の群衆に親しまれていたので、間違いなく、民衆は人殺しのバラバではなく、預言者イエスを釈放して欲しいと求めると思いました。
しかし、扇動された群衆はイエス様の釈放ではなく、バラバの釈放を求めました。これもまた、ピラトの思惑通りいかなく、ピラトはイエス様を十字架刑にせざるを得ない状況に追い込まれました。
けれども、最終的にはピラトの思惑通りなりました。ピラトは皆を満足させました。イエス様の十字架刑を激しく求める群衆を満足させました。群衆を満足させたので、過ぎ越しは何も無く無事に終わるはずです。祭司長たちや長老たちや律法学者たちと最高法院全体を満足させたので、しばらく穏やかに過ごせます。イエス様も何の抵抗も無く、静かに十字架を受け入れました。ピラトにとっては結果良ければすべてよしです。ピラトにイエス様を守らないといけない使命があるわけでもなければ、総督として守るべきブライドがあるわけでもありません。とにかく、過ぎ越しの日に何も起こらないのが彼の願いです。
3.主なる神のご計画
「神の策略」という本があります。Dallas Willardの本でいつがマタイの福音書にある山上の垂訓をシリーズでメッセージさせて頂いたことがあります。英語では「The Divine Conspiracy」です。神の計画、神の計算ではまだ物足りないので、人間には謀り知ることのできない、奥義のような、人間には想像もできない絶妙な御業を人間的な言葉で表現したと言葉が神の策略です。すべてが人間の思惑通りになったので、神のご計画が完全に失敗したのかなと思いましたが、後になってみるとすべてが神のご計画通り、神の思惑通りになりました。
イエス様の十字架がまさに神の思惑通りになった結果です。イエス様が当時、過ぎ越しの日にお亡くなりにならなかったら、イエス様はもう一年待たないといけません。イエス様は過ぎ越しの日に合わせてガリラヤから長い時間、タイミングを計りながらエルサレムまで来られました。ピラトの思惑通り、イエス様がその日、釈放されたら、私たちの救いはどうなりますか? イエス様が十字架刑ではなく、石打で殉教されたら、私たちの救いはどうなりますか?
今日の箇所ですべてが人間たちの思惑通りになりました。すべてが祭司たちの思惑通りになりました。タイミングも、計画も絶妙に合いました。最後の結果がピラトの願い通りになりました。群衆たちの願い通り、バラバが釈放されました。すべてが悪人たちの思惑通りになりました。普段、彼らは互いに牽制して、互いに憎んで、互いに無視して、互いに利用していたくせに、イエス様を十字架にかけることにおいては一致団結しました。彼らは一つになって神の正義に立ち向かいました。十字架で悪人が聖なる神に勝利したかのように見えました。全部が彼らの思い通りになりましたので、神のご計画が大失敗しているかのように見えました。しかし、最後の最後になってみるとすべてが主なる神のご計画通り、思惑通りとなりました。
彼らはいつも人々を悪利用する悪党たちです。今回も互いを悪利用して自分たちの願いを叶えました。しかし、彼らの悪知恵の背後で働かれる聖なる神が彼らの悪知恵でさえ用いられて、神の救いの御業を成し遂げられました。 今日の箇所に出てくる悪人たちのような愚かさが私達にもあると思います。私達の思惑通りいくことが成功ではありません。私達の思惑通りになることが幸いではありません。神のご計画通りに従うことが成功の人生です。神のご計画に合わせるのが私たちの喜びです。皆様はご自身の将来計画が優先でしょうか? 主なる神の導きが優先でしょうか?
