<ゲッセマネの園> マルコの福音書14:43~52 2026年2月15日

 「目には目、歯には歯」という昔の法律がありました。聖書よりも歴史の長いハンムラビ法典にあります。ハンムラビ法典に書いている「目には目、歯には歯」の意味は積極的な報復です。やられたら、私も同じくやり返す。

 「目には目、歯には歯」は旧約聖書にも、新約聖書にも登場します。しかし、聖書にある「目には目、歯に歯」の意味は消極的な意味です。やられた分以上に報復してはいけないことです。人間の心理は一回叩かれたら二回やり返したがるのが本能ですが、やられた分以上にやり返してはいけないです。

 聖書にある「目には目、歯には歯」がいくら消極な報復だとしても、報復は報復なので、人々の争いは後を絶ちません。人々の争いが終わらないこと知っておられるイエス様は彼らに「あなたの敵を赦しなさい」3年間続けて教えられました。イエス様の弟子たちはわずか、何時間前までイエス様に教えられました。「互いに愛し合いなさい」と最後の晩餐で言われました。「互いに愛し合いなさい」は他の単語に入れ替えると「互いに赦し合いなさい」です。弟子たちの関係が険しくなっている中、「互いに愛し合いなさい」だったので、その中に含まれている意味は「互いに赦し合いなさい」でした。

 けれども、イエス様の愛の教えはゲッセマネの園においては虚しく聞こえました。今日の箇所には険しい単語ばかりです。愛、赦し、あわれみ、平和などを象徴する単語は一つもありません。剣3回、棒2回、捕らえる・捕まえる5回もあります。単に険しい単語だけでなく、人々との関係が一瞬にして崩壊しました。人々との信頼関係を築きあげるのは長い時間がかかりますが、崩壊するのは一瞬です。ゲッセマネの園でイエス様が捕まえられた時間はとても短いですが、その短い時間の中、人々の心は激動するものがありました。

1.イスカリオテユダと十一人の弟子たち

(1)「十二人の一人」、「イエスを裏切ろうとしていた者」

 43節にマルコはイスカリオテユダを「十二人の一人」と呼んでいます。ゲッセマネのできごと以来、イスカリオテユダは「十二人の一人」、「イエスを裏切った者」と呼ばれました。本来であるなら、他の十一人の弟子たちと一緒に神の御国のために奉仕するはずだったのに、イエス様を裏切って、離れてしまいました。イスカリオテユダは裏切りを象徴する名前です。イスカリオテユダは3年間、他の弟子たちといつも一緒でした。すべての喜怒哀楽の時間を一緒に過ごしました。3年間の間、イエス様といつも同じ側に立っていました。しかし、ゲッセマネの園ではイエス様と反対側に立っています。十一人の一人がイエス様から離れて、反対側に立っているこのワンシーンが今日のすべてを物語っています。

 イスカリオテユダはイエス様を裏切ることにしました。今までイエス様を信じたのではなくて、イエス様を利用してきたわけです。イエス様を信じているのか、利用しているのか普段は良く分かりません。ゲッセマネのような険しい瞬間になると明らかになります。イスカリオテユダは今までイエス様の弟子になった理由は出世のためでした。イスカリオテユダ以外の他の十一人も出世を目標にしていたのですが、イエス様を裏切ることまでして出世するつもりはありませんでした。

 私達がイエス様を信じている理由は人生の成功でしょうか、主の栄光でしょうか? 私達は信仰を利用しているのに、信じていると勘違いする可能性が無くもありません。十一人の弟子とイスカリオテユダの分かれ道は何でしょうか? 主のあわれみを受けているどうかと言ってしまえば議論する余地はありません。

 自分が考えているのは私達の普段の祈り課題が影響すると思います。普段から自分のことを中心に祈りますと自分のために信じていることになります。普段から神の御国と神の栄光を祈りますとイエス様のために信じることになります。普段はこれらの違いはありません。しかし、私たちの人生においてゲッセマネの園のような激動の時期になるとその違いが鮮明になります。

(2)「その人だ」、「その人を捕まえて」

 イスカリオテユダはイエス様を「その人」と呼んでいます。今までは先生が呼び名でした。僅か何時間前まで先生と呼んでいました。しかし、現在は彼の運命をイエス様ではなく、悪人たちと共にすることにしました。彼の成功のためなら、イエス様でさえ手段に過ぎません。彼の人生のために、得にならないのであるなら、イエス様でさえ捨てました。

 私達にとってイエス様は「その人」ではありません。その人は他人の事です。イエス様から離れて遠いところにいるから「その人」です。イエス様は私たちの心の中におられます。私の心に中におられる方はその人ではありません。私達にとってイエス様は現在どこにおられますか? 中ですか、外ですか? 主ですか、その人ですか?

2.他人同士の対立

(1)剣や棒を手にした群衆

 祭司長たち、律法学者たち、長老たちはイエス様を捕まえるために、剣や棒を手にした群衆を送りました。祭司長たち、律法学者たち、長老たちはイエス様と利害関係が衝突しますが、群衆たちはイエス様と何の関係もありません。群衆たちも、弟子たちと何の利害関係もありません。何の利害関係も無い赤の他人なので、逆に平気で剣や棒を手にしてイエス様の前に立っています。群衆は悪人でもなく、義人でもありません。利害関係も無く、イエス様を憎む怒りも無いのに、イエス様を敵対する側に立って弟子たちと対立しています。

 互いに他人同士なのに、ペテロによって不幸な事件が起きてしまいました。ペテロが剣を抜いて、大祭司のしもべに耳を切り落としてしまいました。赤の他人同士なのに、怒っている群衆たちと興奮している弟子たちが闘争することになりました。

(2)剣を抜いて・・その耳を切り落とした

 弟子たちの中で剣を抜いて、大祭司のしもべの耳を切り落としたのはペテロです。ペテロは誰よりもイエス様のためなら、何でもする人なので、群衆をみて大変興奮したようです。その興奮も心の恐れから出てきたと思います。ペテロは大祭司のしもべに普段から憎しみを持っていたわけではありません。誰でも良いからと言う勢いで剣を振りました。本当に危ない行動です。誰でも良いからは通り魔のような、無差別殺人未遂です。ペテロはイエス様から普段、互いに愛し合いなさい、互いに赦し合いなさいと教えられましたが、この興奮の状態では心の中に憎しみしかありません。人間は雰囲気で興奮しやすいものです。ペテロの頭の中には「剣には剣」、「棒には棒」しかありません。ゲッセマネの園において、群衆と弟子たちの対立の中には神の御国はありません。いつまでも争い合うこの世の戦争しかありません。

3.イエス様とイスカリオテユダ・群衆・弟子たち

(1)イエス様とイスカリオテユダ

 イエス様とイスカリオテユダ関係はすでに最後の晩餐の時、終わりました。イエス様はイスカリオテユダのことをこのように言われました。マルコ14:21「そういう人は、生まれて来なければよかったのです。」

しかし、それでも、イエス様は最後までイスカリオテユダを友よと呼びました。

 それに対するイスカリオテユダの態度は「その人、その人」でした。そして、裏切りの最後の口づけをしました。マルコ14:45「イエスに近づき、「先生」と言って口づけした。」

 その人、その人と呼んでいたのに、最後の呼び名は再び先生でした。イスカリオテユダが言った先生はイエス様を呼んでいたのではなく、群衆への合図です。暗い真夜中、人々の顔があまり見えないので、誰がイエスなのかはっきり示して群衆たちに教えるための呼び名でした。

(2)イエス様と群衆

 イエス様と群衆は何の関係もありませんが、イエス様は大祭司のしもべの耳を癒してくださいました。イエス様のこの地上の最後の癒しでした。弟子達も皆、興奮している中、警戒心で険しい雰囲気の中、イエス様だけが落ち着いて今まで通り、愛を見せてくださいました。「あなたの敵を愛しなさい」を行動で見せてくださいました。

(3)イエス様と弟子達

 弟子達はイエス様から逃げました。弟子達は今までイエス様がおられるから勇敢でした。イエス様が捕まったので、彼らは怖くて何も出来ず、逃げてしまいました。恐怖の本能で彼らは何も考えず、イエス様から離れました。しかし、イエス様は彼らを回復してくださいました。

結論

 ゲッセマネの園において、今までの弟子たちの信仰は何だったでしょうか? 彼らはイエス様への信仰告白ができませんでした。あまりにも突然起きてしまったことで、あまりにも一瞬のことでした。そもそも、信仰告白と言うのは一瞬の事です。信仰告白できるか、どうかは一瞬で決まります。じっくり考えられる余裕がないまま、今のこの場で、この瞬間答えを求められます。 不信仰に転ぶことも一瞬の事です。自分を振り替えられる余裕も無く、今のこの場で口から出てきてしまいます。ですから、信仰告白と言うのは日々の練習が積み重なった結果です。日々の信仰告白を積み重ねてきた人が一瞬の瞬間においても、信仰を告白することができます。