<何(誰)のための信仰か> マルコの福音書 14;1~11 2026年1月18日

 私たちはイエス様を信じています。私達がイエス様を信じている理由は何でしょうか? 何のための信仰でしょうか? 誰のための信仰でしょうか? 今日の聖書の箇所に登場する人たちは皆、それなりの信仰者です。彼らの信仰の何のためでしょうか? 誰のための信仰でしょうか?

1.祭司長たちと律法学者たちの信仰(1-2節)

 祭司長たちと律法学者たちは当時の社会で一番熱心な信仰者です。祭司は生まれた時から主なる神のために働く人です。主なる神を礼拝するために、毎日奉仕する献身者です。

 律法学者たちも誰よりも神のみことばを知っていて、みことばを守る熱心な人です。彼らは毎日神の御言葉を黙想し、主のために働くことを喜ぶ人たちです。毎日主のために働きましたが、一年の中で特に忙しい時期を迎えました。過ぎ越しの祭りが二日後に迫りました。過ぎ越しの祭りはユダヤ人の最大の祝祭です。一週間の祭りですが、祭司たちにとっては超忙しい時期です。過ぎ越しが始まる最初の日にたくさんの子羊を屠る仕事があります。忙し過ぎて他の事は考えられる余裕がない時期です。

 日本の風習から想像すると初詣を準備する神社やお寺の人達のように一番忙しい時期を迎えました。海外からもたくさんの訪問客が来ました。祭司が過ぎ越しの祭りを準備するのは主なる神のためです。主なる神が旧約聖書から命じられた大事な戒めなので、大事に守りました。祭司が過ぎ越しの祭りを準備するのは民に仕えるためです。律法を守る学者たちにも大事な戒めです。

 ところが、主なる神を信じている祭司長たちや律法学者たちが過ぎ越しの祭りに集まって議論した内容は「イエスをだまして捕らえ、殺すための良い方法を探して」いました。祭司の本来の仕事は過ぎ越しの子羊を屠る事であって、人を殺すことではありません。しかも、何の罪もない人を殺すことではありません。何の罪のない人をだまして殺すのであるなら、祭司失格です。

 彼らはイエス様をだまし捕らえて、殺すための良い方法を探していましたが、中断しました。中断した理由が信仰ではありません。「祭りの間はやめておこう。民が騒ぎを起こすといけない」のが理由でした。罪なき人を殺してはいけないとか、過ぎ越しの祭り、本来の神の仕事に集中しようとか、信仰の理由ではありません。単なる自分たちの都合が悪くなるため、中断しました。祭司長、律法学者は、身分は偉い信仰者ですが、その中身は悪人です。

2.弟子たちの信仰(4-5節)

 イエス様の弟子たちは3年間イエス様の教えを聞いて来ました。例えば、神を愛しなさい、隣人を愛しなさいと言われました。イエス様が貧しい人々をあわれまれることをすぐそばで見て来ました。イエス様が貧しい人をあわれまれる心を弟子たちも持っていたので、その理由で怒りだしたのであるなら、それは素晴らしい信仰です。「隣人を自分自身のように愛しなさい」の戒めを忠実に守ろうとしていたのでしょうか?

 残念ながら、弟子たちがイエス様に叱られるのを見ると弟子たちにとってイエス様よりはお金が大事だったようです。香油を注いだ女性よりはお金が大事だったようです。他の福音書を参考にするとイスカリオテユダがこの女性に一番怒っていましたが、他の弟子たちもイスカリオテユダくらい相当怒っていたと思います。

 弟子たちが怒っている理由は何でしょうか? 彼らなりには信仰の理由だったと思います。隣人を自分自身のように愛しないというイエス様の教えを守ることは信仰です。隣人のために使うべき大事なお金を無駄遣いしている女性を責めることも信仰です。しかし、その信仰はまだ成熟していない信仰です。

 成熟した信仰はイエス様を素直に愛することです。隣人を愛しなさいと言う教えに拘って、イエス様そのものを粗末にしてはいけません。イエス様より施しが大事になってはいけません。イエス様より施しを強調してしまうとイエス様が無くなります。イエス様がいない施しは結局、自分の誇りのために施したことになります。

 弟子たちの信仰にいくつかの間違いがあります。間違い一つは、お金で貧しい人を救う方法はありません。いくら施しても貧しい人はいつまでも貧しいです。貧しい人には結局、お金ではなく、イエス様が必要です。ですから、イエス様も3年の間、直接お金をあげたことはありません。全能の神の力で貧しい人を食べさせる奇跡によって彼らを救われました。

 間違い二つは、もしかして、弟子たちの手元に300デナリの香油があったら、弟子たちは惜しみなく、イエス様の頭に注いたのでしょうか? イエス様のためなら、命も惜しまず捨てる覚悟はまだありません。

 間違い三つは、弟子たちはこの女性のような信仰も無いのに、どうしてそこまで怒ったのでしょうか?

 4・・憤慨して・・「何のためにこんなに無駄にしたのか」

信仰の二重人格を持っている人はこうなりやすいです。自分の信仰基準で他人の信仰を判断して激しく反応することが最近、増えたのであるなら、注意が必要です。誰かの過ちにあまりにも激しく怒る人は弟子たちのような弱さがあります。普段、真面目な人が弟子たちのようになりやすいです。普段、正義感が強い人もこうなりやすいです。

3.女性の信仰(3節)

 今日の箇所に登場するすべての人に比べるとこの女性の信仰は純粋そのものです。彼女には祭司長たちのような人間的な別の計算はありません。弟子たちのように自分の信仰を誰かに見せようとする虚栄心もありません。彼女はただ、イエス様の恵みに感謝して、純粋な気持ちでささげているだけです。

 3節に書いてあることばが彼女をきよい信仰を現しています。

純粋で、非常に高価な、小さな壺、その壺を割り、イエスの頭に注いだ。」

彼女の純粋な心を、素朴な心をイエス様にささげました。彼女ができる精一杯のことをしました。イエス様は彼女の純粋な心を受け入れてくださいました。彼女の純粋な信仰をほめて下さいました。

 私自身は純粋な信仰が好きです。人間的な計算が増えると純粋さが無くなります。罪ある人間なので、100%の純粋はできないとしても、私達はこの女性のように純粋な信仰者として生きたいです。信徒の皆様も同じでしょうか?

4.信仰を捨てるイスカリオテユダ

 信仰は過去の過ちを悔い改めることです。11人の弟子たちは悔い改めました。11人の弟子たちは最初、人間的な目的がありまして、イエス様について来ました。しかし、イエス様の十字架の後、彼らは生まれ変わりました。弟子たちはこの女性のように純粋な信仰者として生涯を全うしました。11人の弟子たちはイエス様を愛する人に生まれ変わりました。イエス様だけを一番大事にする人と生まれ変わりました。

 しかし、イスカリオテユダはそのまま不信仰に残りました。

10節「さて、十二人の一人であるイスカリオテのユダは、祭司長たちのところへ行った。イエスを引き渡すためであった。」

11人の弟子たちは全員、イエス様のところに残っています。しかし、イスカリオテユダは祭司長たちのところに行きました。その目的はイエス様を引き渡すためでした。今までいくらひどい生き方をしたとしても、悔い改めれば大丈夫です。

 しかし、イスカリオテユダは悔い改めないで、今まで通りの罪の生き方を続けました。イスカリオテユダにとって主はお金でした。救いもお金でした。最後までお金によって物事を判断しました。そのお金が彼を地獄に道案内しているのに、それでもついて行ってしまいました。300デナリの香油で激しく憤慨した理由はイエス様のためではなく、彼自身のために憤慨したわけです。

 私達にとって信仰は何でしょうか? 祭司長たちや律法学者たちのような表と裏が違う矛盾する信仰は無いでしょうか? 仕事は神の仕事をしていますが、その中身は堕落している信仰はないでしょうか? 特に神の仕事をしている牧師が要注意です。

 弟子たちのように二重人格者のような信仰はないでしょうか? 口では信仰を言っていますが、実際はそこまでイエス様を愛していないことはないでしょうか?

 さすが私達はイスカリオテユダのような不信仰は無いでしょう。しかし、私達も悔い改めることが無くなったら、どうなるか分かりません。 私たちは純粋な信仰を最後まで全うしたいです。イエス様を一番愛する人になりたいです。「キリストには変えられません」の賛美を私たちの信仰告白にしたいです。