先週から、アドベントを迎えました。キリストの誕生を喜び祝うシーズンです。今日の聖書箇所は、クリスマスに直結している訳ではありませんが、クリスマスへの心構えとしても、先々月から続けて学んでいるピリピ人への手紙からお話ししたいと思います。
いつも・主にあって・喜ぶ
最近喜んだことはありますか?あれもこれもと小さいことから大きいことまで、喜びの出来事が出てくるかと思います。しかし、中には、最近喜んだことってなんだろうと、考えても出てこない人、もしくは、喜んだのはもう数年前だ、なんていう人もおられるでしょうか? 「喜び」を見ていくと、必ず喜ぶ瞬間のきっかけになる対象があるかと思います。物事がうまくいったと言う結果で、喜んだ。仕事のノルマに達して、喜んだ、のようにです。
パウロも、「喜びました」と、度々この手紙の中で話していますが、1章 18 節には、福音を伝えるものが自己中心的な動機で、イエス様を伝えていても、どういう形であれキリストが宣べ伝えられているのですから、私はそのことを喜んでいます、と言いました。イエス様が宣べ伝えられたことに対して喜びました。また後の2章 17-18 では、ピリピの方々のパウロ自身が捧げ物と捧げられることになっても(殉教の死を遂げても)喜びます、と言い切っています。
パウロはイエスキリストを宣べ伝えるために、牢屋に入れられている人です。イエス様が宣べ伝えることに関して全てが彼の喜びの対象なのでした。 そして、今日の4章 4 節の喜びなさい!というパウロからの言葉は、そのパウロが今まで経験してきたこの喜びに一緒にあずかって喜ぼう、という意味も含まれていますが、それよりも、また新しく、違う事柄に対して、ピリピ人・また私たち個人に対して喜びなさい!と命令しています。 喜びなさい!と強く言われて、何を喜ぶのでしょうか?
“主にあって”がキーワードなのです。主にあっては、主イエスキリストと人格的な交わりを持っていることです。私たちは、イエス様を信じて、イエス様を通して主と人格的な交わりを持っていることを喜ぶことができるのです。 特にこの、アドベントの時期にもう一度この喜びを味わいたいと思います。救い主イエスが人間としてお生まれになったこと、その命を忠実に一生懸命に生きて私と主との関係を回復するために、イエス様が十字架にかかり死ぬことを選んだこと、その愛を通して、私たちは主の愛の中で生かされ、この交わりを持てること、その全てが、“主にあって”と言う短いフレーズの中に含まれているのです。そして、“いつも”、ももう一つのキーワードです。いつもは、“どんな時”でもです。
喜ばしい状況の時だけ、喜ぶのは当たり前です。小さい子でもそうです。イエス様を信じていなくてもそうです。しかし、パウロは、喜ばしいような状況ではなくても、困難な時も、いつもどんな時も喜びなさい!と言いました。 感情に左右されやすい私たち人間にとって、とても難しい話だと思います。
しかし、キリスト者は、辛い時に必要以上に嘆き悲しみ、不信仰になり、人間だから仕方ないよね、と正当化する生き方で生きるのではないと思います。辛いときこそ、慰めを得て、信仰を働かせて、聖霊により頼み、主にあって喜ぼうとすることがイエスキリストを信じる生き方ではないでしょうか? それでは具体的に、どのように喜べば良いのでしょうか?
旧約聖書の時代に戻り、ダビデを見てみます。ダビデが、サウルに追われ、自分が殺されるかもしれないという人生で考えられる一番最悪の状況の時、ダビデは、主を賛美しました。(詩篇 57 編 16-17 節参照) 状況に圧倒され、恐ろしさに震えて洞窟に隠れていたのではなく、賛美することを選び取りました。そして、神様が助けてくれたから賛美したのではなく、その洞窟の中にも、洞窟を抜けた先にも、ただ主が変わらず居てくださる避け所である主をほめたたえました。
どんな時でもいつでも喜んでいなさい、と言われる時、私たちはどんな状況でも主を賛美し、主を喜ぶものであることを選びたいと思います。主にあって喜ぶことのできるこの特権を味わえるように、苦難な中でも揺るがない信仰を与えてくださるよう祈りたいと思います。聖霊様により頼み、必要な力を与えてくださり、イエス様が与えてくださった主との交わりを喜び続けるものとなりますようお祈りします。
主に心を明け渡す
6 節の、思い煩うという言葉は、山上の垂訓、そしてマリアとマルタの箇所にも出てきます。そして、その箇所を見ると、思い煩うとはどういう状態のことをいうのか、教えてくれます。
31 何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。(マタイの福音書 6:31)
主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。(ルカの福音書 10:41)
不安で心が支配されている様な状態、過度に心配しすぎて不信仰に陥っているような状態のことを思い煩うと言うのでしょう。ピリピ人達も過度に心配しすぎてしまうということがありました。特に、パウロの安否について、彼は本当に大丈夫なのだろうか、私たちの教会はこれからどうなってしまうのだろうかと、不安に思っていたことだと思います。
思い煩いが出て心が支配されそうな時、私たちがすることは、なんでしょうか? それは祈ることです。詳しく言うと、祈りを通して、私の心を神様に知ってもらうことです。そして、それは、どのような祈りかと言うと、“あらゆることを”、“感謝をもって”、自分の心を神様に知ってもらうという祈りなのです。
日本語では“あらゆる場合に…”と訳されていますが、ギリシャ語では、 “何事も心配しないで、その代わりに、あらゆることについて祈りなさい”と言うニュアンスも込められています。パウロは、思い煩いで心が支配されそうな時、どんな時でも、どんなことでも、祈ることを勧めています。
また、どのような態度で祈るかと言うと、感謝を持って祈ることです。感謝を持って祈るときに、自分中心の祈りから、主が主人公の祈りへと変えられていきます。思い煩う時、心が辛い時、何をどう祈ればよいとわからない時は、主への感謝から祈り始めてみましょう。その時聖霊様が働かれ、自然と祈りが導かれていくのを経験できるはずです。
主の平安を体験する
7 節では、そのように全て感謝を持って祈る時、神様はその願い事を全て叶えてくださいます!ではなく、人間の理解や考える神の平安で思い煩う心から守ってくれます。私たちが思い付く一番ベストな解決策、信頼できる人からのアドバイス、それらのものは一時の安心であっても、私たちの心が平安になることはありません。感謝を持って自分の思いを明け渡す時、私の理解や考えより勝り、私たちには想像を超える安心と平安を与えてくださいます。私の理解や考え通りの平安ではなく、人間に理解できる程度の平安ではなく、想像もつかない言葉にも何にも表すことのできない平安で包み守ってくださるのです。 このまもるという単語は、英語だと guard で、軍事用語となります。思い煩い、不安で心と思いが支配されそうな時に、神の平安が私たちの心を包みまた、盾となり、守ってくださいます。 アドベントの時期を迎え、私たちは困難の中にあっても、もう一度“主にあって”喜ぶことができることを感謝したいと思います。イスラエルを見捨てず、この世界と私たちを愛し、救い主なるイエス様を送ってくださった主に感謝し、イエスキリストを信じる時にその交わりに入れられた喜びを噛み締めたいと思います。また、この喜びの時期において、困難の中を歩まれている方々と共にインマヌエルの主が共にいてくださり、私たちの心のうちを知り、何にも変えられない平安を与えてくださいますように。
