私達は現在、何を求めていますか。幸せを求めていますか。お金、仕事、結婚、家庭、健康、平和、安全、就職、学生は進学を求めていますか? 自分は教会の次のステップを求めています。教会の次のステップは自分の人生の次のステップでもあります。皆様はこれらの中で現在、具体的に何を求めていますか?
聖書は私達に何を求めたら良いのかを教えてくださいました。
「上にあるものを求めなさい」
「上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。」
私達は求めることを、思うことを、人生の目標と言えます。この頃、私の心が、関心が、興味が、集中していること、集中しているものです。お金、仕事、人間関係、健康、家族、勉強、未来など、人によって皆違います。皆様の現在の心はどこに向いていますか?
私たちが求めているのは具体的なものなので、分かりやすいです。しかし、聖書が言っているのは抽象的なもので、何を言っているのか分かりにくいです。「上にあるもの」って何でしょうか? なぜ、私達は上にあるものを求めないといけないでしょうか?
私達が求めているのは具体的で、分かりやすいことで良いですが、一時的なものです。一時的なものなので、あっても良いし、無くても良いものです。一時的なものはビジョンではありません。
聖書が言っている上にあるものは抽象的なものではありますが、ビジョンです。とても大事なもの、生きがいとなる大事なものです。私達には小さい幸せも必要ですが、意味ある人生、人生の意味を求めています。私達は現在何を求めているのか、何を求めたら良いのか今日の箇所を通してみましょう。
1.上にあるものと地にあるもの(1~2節)
上にあるものはキリストです。イエス・キリストは現在、天の上におられます。イエス・キリストは神の右の座に着いておられます。上にあるものを求めることはイエス・キリストの御心を求めることです。私の人生の目標を求めるのではなくて、イエス様の御心を求めることです。イエス様の御心を求める事なので、抽象的に見えるかも知れません。
その反面、地にあるものは私の目標です。私の目標なので、やる気があります。自分が現在やりたいことなので、詳しくて、具体的です。詳しくて、具体的なので、やる気も出ます。できそうな、可能に見えるので、やる気があります。私のやる気、どこからでしょうか? 自分のやる気、自分の欲望、自分の願い、自分の計画、自分の、自分のと言っているのをみるとイエス様と関係ないところからです。イエス様の御心から与えられた使命は聖なること、きよいこと、美しい目標ですが、自分の情欲から生まれたのは罪からです。
キリスト者はキリストと共に生きる人です。1節と3節に「キリストとともに」が2回もあります。キリスト者はキリストと共に死んで、キリストと共に復活して、現在、キリストと共に生きている者です。私達のすべてが「キリストと共に」です。「キリストと共に」は私達に大きな安心感をくださいます。生きる時は言うまでもなく、死ぬ時でさえ大きな安心です。
ここで、家庭集会の方から聞いたことを紹介させて頂きます。死ぬこともあまり怖くないと言われました。80歳以上超えると確かにそんなに怖くないそうです。食べたいもの全部食べたし、行きたいところに全部行ったし、見たいものを全部見たし、やりたことを全部やったし、できなかったことの悔しさもないし、惜しいこともない。確か、そのくらいの境地に達すると人生十分満足と言えるでしょう。いつ、死が近づいても怖くないとおっしゃいました。私もその気持ちがある程度理解できたので、賛同しました。
しかし、死ぬことを別の意味で説明しましたら、私の意見も賛同してくださいました。死ぬことは一人で見知らぬ世界に入ることです。一人で、暗くて長いトンネルに入る気分でしょう。一人で、深淵の海に吸い込まれる気分でしょう。一人で、闇の宇宙に追い出される気分、それが一人だけなので、本当に怖いです。せいぜい、二人であるなら、どこでも、大丈夫です。しかし、一人だけなので、とても怖いです。しかし、「キリストと共に」であるなら、どこでも行けます。「キリストと共に」であるなら、いつでも行けます。私達には「キリストと共に」と言う安心感があります。生きている間にも安心、天国に帰る瞬間も安心、イエス様の御手に全部委ねています。
2.神のうちに隠されているいのち(3~4節)
私達の足は現在、天の上についているのはなくて、この地の上についています。私達の目は天の上におられるキリストは見えなくて、この地の上のあらゆる心配しか見えません。私達の心は天の上におられるイエス様を考える余裕はなくて、この地の上でどうやって生きるかの事で精一杯です。心配、不安、悩みが私たちの現状です。
しかし、聖書が言っているキリスト者の現状は3節です。
3節「あなたがたはすでに死んでいて、あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです。」
私達のいのちは神のうちに隠されています。私達のいのちが神のうちに隠されているので、安心です。私達のいのちは一番安全なところで守られています。誰もノータッチです。
私達のいのちは神のうちに隠されているので、神秘的な秘密です。私たち自身でさえ、最後の日にならないと天国において栄光の姿がどれほど輝く姿なのか今はまだ、分かっていません。イエス・キリストによって神のうちに隠されていた私たち自身の素晴らしい栄光を未来、天国で見ることになります。私達は未来の天国が楽しみです。神のうちに隠されていた私たちの栄光が明らかになるその日を待ち望みましょう。
3.以前の生き方を捨て、新しい人を着なさい(5~11節)
救われる前の生き方は淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、貪欲などです。その中で代表的なものが貪欲です。貪欲は偶像礼拝だと言っています。貪欲が神です。貪欲は簡単に言えば私たちの中にある欲です。食欲、性欲、物欲、心から欲しがる欲です。私達はその欲に従います。その欲に指示に従って、体と心が動きます。私の体と心を支配する力強いものなので、神のような存在です。貪欲に従うのだから、偶像崇拝と言えます。イエス様に従わないなら、欲張るままの生き方をします。
欲、そのものは本能ですが、ある程度制御できれば神ではありません。しかし、欲を全然抑えられないことになると神です。欲に100%従うことになると偶像崇拝です。
私達にも貪欲がありますが、貪欲に従おうとする時、聖霊なる神がブレーキをかけます。聖書のみ言葉を思い出します。心の良心も作動します。そこまで欲張ってはいけない、そこまで欲張ると怖い、良心が慎みなさいと言います。
聖書のみことばに従うのであるなら、それは信仰です。しかし、貪欲に従うのであるなら、それは偶像崇拝です。私達は日々代わりがわり、みことばに従う日もあれば、欲に従う日もあります。日々、代わりがわり、信仰の戦いをしながら、徐々に「新しくされ続け」ます。これからも、徐々に以前の生き方を捨て、新しく生まれ変わった人として生きたいです。
今日の箇所には着替えるイメージのことばが多いです。以前の生き方を脱ぎ捨てて、新しい人に着替えます。
8節「怒り、憤り、悪意、ののしり、恥ずべきことばを捨てなさい」
9節「古い人をその行いとともに脱ぎ捨てなさい」
10節「新しい人を着たのです」
12節「深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい」
着替えのイメージを黙想してみたら、イエス様の復活の瞬間を黙想しました。イエス様は復活なさった時、お体に巻かれていた亜麻布はお墓に残したまま、栄光の体、栄光の衣服を着ておられました。以前の古い服を脱ぎ捨て、栄光の新しい服です。このイメージで私たちの事を考えてみると古い自分は死にました。同時に、今までの生き方、今までの生きる理由、目標も脱ぎ捨てました。今までの古い罪も死にました。イエス様を信じてから、新しい人となりました。目に見えない神の子どもと言う身分と共に、栄光の輝きを頂きました。目には見えませんが、聖なる栄光の服を着ているとイメージしながら生きたいです。まだ、肉体のままなので、強い影響は受けているものの、10節のように「新しくされ続け」ます。新しくされ続けることも主に委ねて、日々の信仰に励みましょう。
