天のお父様は罪人であった私達を赦してくださいました。罪の債務証書を無効にしてくださいました。さまざまな霊的な勢力の支配から解放してくださいました。天の父様は私達に信仰による自由をくださいました。
今年のTBCの主題が「自由」でした。私達は主にあって自由でしょうか? 私達は主から頂いた自由を喜んでいますか? 私達はもしかして、未だに何かに縛られて、制限されているのではありませんか? 私達はもしかして、未だに誰かに縛られて、自由がないのではありませんか? コロサイ教会員はイエス様によって、信仰によって自由になりましたが、今日の箇所に書いてある通り、自由を失っていました。コロサイ教会員は信仰の自由が無く、縛られて、拘っていたのは何でしょうか?
1.信仰者を制限する縛り(16節)
(1)「食べ物と飲み物による縛りや拘り」(16節、21節)
食べ物、飲み物は毎日の事です。毎日の事なので、何かの制限があるととても不便な生活になります。例えば、ユダヤ人の律法に牛は食べても良いですが、豚は食べてはいけません。祭司は主にささげた献身者なので、生涯、食べ物、飲み物の制限がありました。ナジル人と言う人たちもいましたが、生まれた時から聖別された人なので、ぶどう酒を飲んではいけませんでした。水の代わりにぶどう酒を飲んでいる地域なのに、ぶどう酒禁止は相当のストレスです。
ユダヤ人には律法以外にもたくさんの制限がありました。律法も要求していないいろいろの制限を人々に要求しました。手を洗わないで食べたことで、イエス様が批判されたことがその例です。手を洗わないことと信仰と何の関係がありますか。
きよい信仰生活をしましょうと促すのは良いことです。しかし、きよい信仰生活と言葉だけひとり歩きすると形だけの信仰が残ります。コロサイ教会も聖なる信仰を強調して行くうちに禁欲主義が強調されたと思います。21節「つかむな、味わうな、さわるな」は禁欲主義のキャッチフレーズみたいです。聖なる良い信仰のために「つかむな、味わうな、さわるな」叫びましたが、後になると「つかむな、味わうな、さわるな」だけ残って、信仰と何の関係の無いものになります。逆に「つかむな、味わうな、さわるな」が信者たちの信仰の自由を縛ることになります。天のお父様は私達に信仰による自由をくださいまして、その自由から生まれる喜び、幸せ、兄弟愛を楽しみにしておられます。信仰の自由を制限してしまうと幸せ、喜び、兄弟愛は無くなって、逆に兄弟へのさばき、厳しさ、怒り、蔑視だけ残ります。
(2)何々日の縛りや拘り(16節―17節)
信仰による自由を奪うのは食べ物、飲み物だけでなく、何々日と言って制限されることもあります。コロサイ教会員には「祭りや新月や安息日」がありました。ユダヤ人は安息日を中心に一週間の生活をしました。私達は日曜日の礼拝を中心に信仰生活しています。
しかし、日曜日礼拝は喜びの現れであった、恐れの意味ではありません。しかし、ユダヤ人が安息日を守る理由は恐れです。イスラム信者たちのラマダン断食も恐れが理由です。信仰は恐れが理由になると変になります。私達の信仰生活の理由は父なる神を恐れているからではなく、愛しているからです。
コロサイに住んでいた人たちはまた別の縛りがありまして、太陽、月、星にも支配されていました。天体の動きに影響を受けました。太陽の動き、星の動きを観察して大事なことを決めました。今の時代もこれらの事は続いています。今はそれだけでなく、たくさんの何々日を作り出して、守って、支配されています。今の時代は1月から12月までいろいろの日を作りました。バレンタインデー、ホワイトデー、ハロウィーンデー、毎日が何々の日です。
何々日を作る出すことまでは良いと思いますが、問題はその後から、自ら縛られます。誰かに無理やりに要求します。誰かの思考の自由を強要します。
「だれかがあなたがたを批判することがあってはなりません」
私達もこれらの理由で誰かを批判することはあるかも知れません。受難週を強要することはあります。無理矢理にスケジュールを制限する、計画を制限する、非難する、断食させる。「本体はキリストにありま」して「何の日」は大事ではありません。キリストを愛するために作った「何の日」なのに、後になってキリストはいなくなって、「何の日」だけが残ったら、それはまさに本末転倒です。
2.信仰者の自由を奪う者たち(18―19節)
コロサイ教会員の信仰の自由を奪う人たちがいました。18節の「自己卑下や御使い礼拝」する人たちです。自己卑下は謙遜になる事なので、良い事なのにどうしてここでは問題でしょうか? 自己卑下は御使い礼拝と関係しています。コロサイ教会を惑わした偽りの教師たちは禁欲と修養を強調しました。禁欲と肉体の苦行は天の秘密である幻を見るために効果的だと考えていました。幻を見るために謙遜は無くてはならい技術だったそうです。天の幻を見るために自分の体を虐待しました。それは謙遜でもなければ、信仰でもありません。単なる変な神秘主義です。
当時の神秘主義と言えばみ使い礼拝もありました。天使が神を礼拝する幻の中に一緒に参加できると教える偽りの教師がいました。18節:「彼らは自分が見た幻に拠り頼み」がそれです。天使が神を礼拝するところに偽りの教師が参加します。神秘的な境地に参加するために自己卑下の禁欲が必要です。一度、神秘的な幻を見たことを何回も繰り返し自慢します。幻を見たので、人々から注目を浴びます。注目されるのが嬉しくて、傲慢になります。人々に偉く見える楽しさで、ますます神秘的な幻を求めます。神秘的な幻を求めて、ますます、自己卑下に励み、自分の体を虐待しました。
彼らは自分が見た幻の罠に陥ってしまいました。それをパウロは「自分が見た幻に拠り頼み」と言う単語を使いました。主イエスを拠り頼むのではなくて、主イエスの十字架を拠り頼むのはなくて、主イエスの人格に拠り頼むのではなくて、自分が見た幻を頼りにしました。偽りの幻を見るためにひたすら努力して、自分の体を叩いてますます変な事をしました。イエス様を信じる信仰ではなく、偽りに騙されていることです。当時、幻に頼る人たちはかしらなるイエス様にしっかりつながっていない人たちでした。キリスト者のかしらはイエス様です。教会はイエス様の体です。教会の主任牧師はイエス様、私達はイエス様のお体です。私達はイエス様に結びついて、支えられ、つなぎ合わされ、育てられています。私達はイエス様に集中したいです。キリスト教的な何かではなく、宗教的な何かではなく、神秘的な何かではなく、イエス様に集中したいです。
3.誰の為の信仰の自由なのか(20―23節)
私達はイエス様を信じてから自由になっているところと自由になっていないところがあります。皆様にとって自由になったこととまだ自由になっていないことは何でしょうか? コロサイ教会の信徒たちも偽りの教師の教えに混乱していました。
21節:「つかむな、味わうな、さわるな」。
良い信仰のために21節を始めました。しかし、イエス様が要求なさったことではありません。人の頭で作ったものです。「つかむな、味わうな、さわるな」と言うとイエス様の十字架の恵みが無くなります。良い信仰のために規則を作ると最初は良いものですが、時間が経つと人の戒め、人の教えとなる可能性があります。コロサイ教会で偽りを教えた教師たちの教えも人が作った戒めです。
パウロがコロサイ教会に言っていることを私達も耳を傾ける必要があります。
23節:「人間の好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行のゆえに知恵のあることのように見えますが、何の価値もなく、肉を満足させるだけです。」
イエス様のための信仰なのか、自分のための信仰なのか? この世の宗教とイエス様の信じる信仰とここが違うことです。私達の信仰は自分のための信仰ではなく、イエス様のための信仰です。
コリント第一の手紙10:31
「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現わすためにしなさい。」
私達はコリント第一の手紙10:31に基づいて、私たちのすべてをもう一度確かめる必要があると思います。私の好きな礼拝をしているのか、主が喜ばれる礼拝をいているのか、自分の謙遜は主のためなのか、誰かに見せるためなのか、信仰の苦労をしているのは主のためなのか、自分のためなのか。役員の皆様の奉仕は主のためなのか、皆様の信仰的な満足のためなのか。牧師は主のための犠牲なのか、個人的な名誉のためなのか。コロサイの手紙から私達は自分たちの信仰の原点をもう一度吟味してみたいです。
