<「私の中心であるキリスト」(2)>2025年11月9日

1.イエス様と私は運命共同体(12節)

11節に割礼と言う単語があります。
「肉のからだを脱ぎ捨てて、キリストの割礼を受けたのです」
12節にはバプテスマと言う単語があります。
「バプテスマにおいて、・・キリストとともに葬られ、・・キリストとともによみがえらされたのです。」

割礼は旧約でユダヤ人が一番大事にして儀式です。
割礼を受けることで神の民となります。
割礼はユダヤ人のアイデンティティです。
バプテスマは新約の教会が一番大事にしている儀式です。
バプテスマはイエス様を信じていますと言う公の現しです。
私達はバプテスマを受けることで神の子どもとなります。
バプテスマは私達キリスト者のアイデンティティです。

割礼とバプテスマは同じ意味を持っています。
パウロはユダヤ人のアイデンティティである「割礼」と言う単語を借りて、「キリストの割礼」と言いました。
旧約の割礼ではなく、キリストの十字架の割礼です。
割礼は肉の体を脱ぎ捨てる契約ですが、十字架はイエス様の肉体が裂かれる契約です。
私達はキリストの割礼である十字架を受け入れました。
それはバプテスマと同じ意味で、私達は水の中でキリストと共に死にます。

バプテスマの意味がイエス様と共に死んだことを象徴します。
罪人であった私達はキリストと共に死にました。
そして、キリストと共によみがえりました。
キリストと共に死んだのが事実であるなら、イエス様と共によみがえられたことも事実です。

割礼とバプテスマはそれぞれ違うものではありますが、イエス様と私は一つの運命共同体の意味では同じです。
私達はイエス様と共に死んで、共によみがえりました。
私達はイエス様と共によみがえられた人のように生きたいです。
キリストと共によみがえられたのに、どうしてこんなに元気がないのか疑問です。
主に尋ねてみましょう。
死からよみがえられた人なのに、生きる元気が足りないのか、祈ってみましょう。
よみがえられた人として生きたいと主に願いましょう。

2.私の運命を変えられた神の四つの御業(13-15節)

13節からはコロサイ教会の信徒たちに主なる神がなさった御業を振り返っています。
主なる神は主に四つの事をなさいました。
コロサイ教会員と同じく私達もこのように救われました。
私達がいつも聞いていたことではありますが、一味違うような気がします。

(1)私たちのすべての背きを赦し(13節)
パウロは13節で背きと言う単語を二回使いました。
キリスト教において、死と生きることは主なる神に属しているかどうかの概念です。
父なる神から離れていることが死であり、くっついている状態がいのちです。
離れていること自体が罪であり、死んでいる状態です。
その罪をパウロは具体的には背きと言う単語を使いました。

罪と背きは何の関係でしょうか。
罪にはいろいろのイメージがありますが、今日は背きを強調しています。
背きは分かっていながら罪を犯したことを強調します。
知らないうちではなく、罪であることを分かっていながら、裏切ったことです。
弱いからではなくて、とても積極な態度が裏切りです。

主なる神を裏切る性質は今も私たちの中で続いています。
私達は生まれる前から特別な使命によってこの地に生まれました。
しかし、主からの使命よりは自分の計画で生きています。
主なる神への栄光よりは自分の成功を求めています。
歳を取ってから、人生いろいろ失敗してから、自分は今まで何のために生きたのか嘆きながら初めて、主なる神を求めます。
そして、今までの生き方を悔い改めて、主から赦して頂いてから、人生やり直します。
キリスト者なのに、元気がないのは主なる神と離れている可能性が高いです。
主と顔と顔を向けているのではなくて、背中を見せているからです。
関心事が主ではなく、この世になっています。
生き方がキリスト従うのではなく、背いているからです。
私達は主を背きましたが、主は私達をキリストの十字架で全部赦してくださいました。

(2)私たちを責め立てている債務証書を無効にし(14節)
14節に「債務証書」という単語があります。
債務証書が何か当時の人達は良く知っていました。
借りる人がお金を借りて、債務証書に自筆でお名前と金額と日にちを書きます。
債務証書を無効にするためには全部返さないといけません。
全部返すまで早く返しなさいと責め立てます。
返せなくなると奴隷になるしかありません。

罪の意味の中には債務と言うイメージがあります。
罪を犯すことは債務証書に借金額が増えることです。
罪を犯しても直ぐ裁かれるのではありません。
債務証書に名前と日付と罪の内容が書かれます。
債務証書が実際天国に実物として存在しているのかは分かりません。
けれども、ドラマでは、映画では、文学には登場します。
そのようなものを見るとリアル感を感じます。

私達は生きている間、注意したいです。
私達の生涯が全部リアルタイムで録画されて、天国で保管されている認識が必要です。
返さない限り、罪の記録を消すことはありません。
私達が何をして、罪の証書を消し去ることができるのでしょうか。
人間は罪の債務証書を削除することができません。
唯一、主なる神がイエス様の十字架を通して債務証書を無効にしてくださいました。

(3)十字架に釘付けにして取り除いてくださいました(14節)
私達の罪の債務証書を十字架に釘付けました。
いつでも見えるように、十字架に釘付けにして
いつまでも見えるように、十字架に釘付けにして
イエス様の十字架の血潮で、私たちの罪の債務証書に書いてあるすべてを真っ赤に塗りつぶしました。
私達の中に十字架の信仰がある限り、いつでも、いつまでも罪の債務証書は無効です。
私達の罪が取り除かれたことをもっと生々しく表現するために、債務証書の単語を使いました。
罪が無くなったと抽象的に言うよりは債務証書が無効になったと言うと現実味があります。

ところで、罪が取り除かれた意味を間違って誤解をする危険性はあります。
主なる神が私たちの罪の債務証書を無効してくださったからと言って、
これからの罪は何も記録されないと悪利用して思いっきり罪を犯してはいけません。
これ以上、記録できる債務証書がないと誤解してはいけません。
これ以上、私の罪は録画されないと油断して、やりたい放題の罪を犯してはいけません。
私達がイエス様を信じ続けている間は罪の債務証書は無効ですが、イエス様から完全に離れた生活をするのであるなら、その人がイエス様を信じ続けていると言えますか。
イエス様を信じ続ける信仰は過去完了形ではなく、現在進行形であって、生涯ずっと現在進行形です。

(4)様々な支配と権威の武装を解除し(15節)
支配と権威は抽象的な単語ではなくて、霊的な存在です。
私達の罪の債務証書を誰かが持っています。
私達が罪を犯す度に、罪の日にちと具体的な内容を書いて保管する霊的な存在がいます。
私達の罪を告訴して、起訴する霊的な存在がいます。
サタンなのか、天使なのか、
私達の罪を告訴する存在であるなら、サタンでしょう。
私達の罪を起訴する存在であるなら、天使でしょう。
罪あるものに罰が必要だと起訴するのは当然のことなので、天使に相応しい仕事です。
罪が無くても告訴するのはサタンがやっていることです。

霊的な存在が私たちの罪の債務証書を握っていて、いつかは証書に書かれた通り、処罰を受けるはずでした。
しかし、イエス様の十字架のおかげで債務証書も無効になり、債務証書を管理していた霊的な存在も武装解除されました。

「武装解除、凱旋の行列、捕虜、さらしもの」は全部当時の風景を現す単語です。
ローマ兵士が戦争に勝利して、勝利の凱旋をしました。
凱旋するとき、戦争捕虜や戦利品を見せながら凱旋しました。
パウロはローマ兵士の凱旋からキリストの凱旋のイメージを説明しました。
良い引用なのか分かりませんが、一番分かりやすくて、強烈なイメージです。
十字架で勝利なさったイエス様が凱旋する時、私たちを脅かしていた霊的な存在は辱めを受けます。
本来であるなら私たち自身が罪の債務証書を首にかけられ、さらしものになるはずでしたが、反対に私達を訴えていた霊的な存在が辱めを受けました。
その代わり、私達には神の子どもと言う身分と十字架による戦利品が与えられました。

それでは、これからの私たちの生き方はどうしたら良いでしょうか。
全部、イエス様の十字架の愛と恵みによって、ただで頂いたものなので、私達も喜んでただで、感謝で人々に仕えたいものです。