<目標を目指して走り抜く信仰> 2025年11月2日

今は、秋の運動会シーズンの真っ只中でしょうか。パウロは何度か、キリスト者の信仰生活をレースに例えて説明しています。本日の箇所であるピリピ人への手紙3:12-14節を通して、パウロがどのようなレースを走っているのか、またそこから私たちのレースをどのように走るべきか見ることができます。

イエス様に捕えられた私たち

12-13節では、パウロは、まだ完全に「イエスキリスト」を理解していないという不完全さを、言葉を変えて繰り返し強調しています。面白いことに、パウロは、昔は、律法を完璧に完全に守ることで救いが与えられると信じ、律法を乱す行動をするキリスト者や教会に対して憎しみや怒りを持っていた人でした。そんな人が、イエス様に出会い、捕らえられて、人生の全てが180度変わったのです。パウロ自身も完璧を求める人生から解放されて、完璧になれない自分を認める人生になりました。
そして、自分自身も迫害に遭いながらも、教会を建て、人を育て、訪ねた教会へ手紙を残して、主の働きに生きるものとなりました。
パウロがそこまでイエス様を追い求めたい理由は何でしょうか?
パウロがイエス様を追い求める理由は、パウロご自身がイエス様に追い求められた・捕らえられたからです。
12節には、“捕える“という特徴的な言葉が出てきますが、ギリシャ語・英語のニュアンスは“自分のものとされる”という意味になります。ですから、イエス様が私を自分のものとしてくださったので、パウロは、イエス様を自分のものにしようと求めている、ということです。
パウロにとって、“自分のものとされる”という経験は、ダマスコへ向かう途中、主イエスに出会い劇的に変えられた経験ではないでしょうか。キリストを迫害するという御心とは正反対の道を堂々と歩むサウロに、イエスが出会ってくださり、赦してくださり愛してくださいました。そして、パウロは、イエスキリストを迫害するために追い求める人生から、イエスキリストを追い求める人生になりました。
パウロの劇的な経験でなくても、このような経験は、みなさまはありますでしょうか?自分の罪をも覆うイエスキリストの愛に、その十字架の愛に触れたときに、自分の無力さと虚しさに気づかされて、その大きな愛に触れられた私たちはもう、イエス様のものにされたのだと知ります。そして、イエス様のものとされた私たちは、イエス様はどういうお方なのか、何をおっしゃるのか、知りたい・聞きたいとイエス様を求めるようになっていくのです。
みなさまは、主イエスを追い求めているでしょうか? もっとイエス様を知りたいと願っているでしょうか。今、皆さんが追い求めているものは何でしょうか。ぜひ今日心を吟味してみましょう。イエス様を追い求めることができない方がいましたら。イエス様に捕らえられるように祈りたいと思います。イエス様の愛の広さ、長さ、高さ、深さを知ることができますように、そう祈りたいと思います。私たちが、イエス様から捕らえられたときに、イエス様を捕えるよう追い求めたいという思いが湧き上がるからです。

過去ではなく、前に進む信仰

続く13節の後半から14節をみていきます。
イエスを追い求めるとは具体的にどのようなことなのだろうか、ということがここに書かれています。そして、パウロは、それは、ただ一つのこと、と示しています。
それは、「うしろのものを忘れること、そして、前のものに向かって身を伸ばすこと」 です。一つではなく、2つではないかと思わずツッコミたくなりますが、パウロにとっては一つのことなのでしょう。過去のことを忘れて、前のものに向かって進むことが、一事です。
パウロにとっては、「うしろのもの」とは、ユダヤ教時代の過去の生活かもしれません。自分が迫害したということについて、どれほど後悔したでしょうか。また、キリスト者になってからの過去の成功体験、また失敗の経験も含まれるでしょう。すぎたことを忘れて、前に向かって走りましょうということです。
しかし、過去の出来事を大切に思っているからこそ、そこから抜け出せずにあの時はこうだったけど今は何でこんな状況なんだと、不満を言ったり現状を否定したりすることはないでしょうか。私たちは、その度に、落ち込み、そして、このゴールを目指す走りが止まります。
私たちは、イエスさまがその十字架によってすでに贖ってくださったことを覚えて、過去にとらわれて前に進めない信仰ではなく、過去を受け止めそこに留まらず、前に進む信仰を持ちたいのです。

ただイエス様を目指して

14節の最後は、“キリスト・イエスにあって、神がパウロをその賞へと召しておられるので、パウロは目標を目指して走っているのです。” と言い換えた方が理解しやすいかと思います。“神様がその賞へと召しておられる”という表現がパウロの考え方に近いようです。
“神様がその賞へと召してくださる”ということが、パウロがこのレースで頑張った努力で、パウロが功績を残したから、神様がパウロを選び・召してくださり、賞を与えようとしているのではないのです。神様がパウロをただ召してくださり、その賞を約束してくださったので、パウロは走り続けているということです。
神様は、イエス様を・主の教会を迫害した正反対の場所にいたパウロに目を留めて、召し出してくださり、使徒として働くように召してくださり、最終的に人生の最期に天に召し入れてくださいました。そして、パウロは追い求めていたイエス様と顔と顔を合わせ、イエス様を心の底から理解することができる、知ることができるという賞・特権を与えられたのです。

私たちがパウロと何も変わらないのは、私たちも、イエス様にお会いできるという賞へともうすでに召され約束されているということです。だから、私たちは、安心して、この自分の目の前にある信仰のレースを走り切りたいのです。もちろん、レース中、邪魔も入ることだと思います。自分自身の過去の出来事が邪魔をして前に進めないこともあるかもしれません。また、目標がイエス様ではなく、全く別のものにすり替わり、その偶像に向かって一生懸命走っているかもしれません。
しかし、召された私たちの目標は、イエス様です。イエス様を見つめて、召しにふさわしく歩めるように祈りたいと思います。
ですから、主にある囚人である私は、あなたがたに勧めます。召しにふさわしく歩みなさい。エペソ人への手紙4:1