<「私の中心であるキリスト」 (1)> 2025年10月26日

コロサイ教会には一つの問題がありました。2章4節にヒントがあります。「まことしやかな議論によって、だれもあなたがたを惑わすことのないようにするため」。変な議論でコロサイ教会員を惑わそうとする人たちがいました。惑わしに騙されないようにパウロは今日の箇所でイエス・キリストに関して熱心に教えています。

1私の人格の中にキリストがお入りになる(6-7節)
私たちはイエス様を信じていて、聖書が真理だと信じています。皆様は牧師の説教は聖書に基づいた福音のメッセージだと信じておられますか。皆様が学校に行くと、会社に行くとこの世の教えが真理のように聞こえて、牧師の言うことは虚しく聞こえるかもしれません。そのことで、何が本当の真理なのか混乱するかもしれません。或いは、真理なんかどうでも良いから、幸せに暮らせるならどうでも良いわと思うかもしれません。

コロサイ教会の信徒たちにも似ていることがありました。コロサイ教会はエパプラスから教えられました。エパプラスから福音を聞いて、その教えが心の中に入りました。
今までエパプラスからの福音に従って、元気に暮らしていましたのに、偽りを教える人たちが彼らを騙していました。エパプラスの福音も一つの考え方に過ぎない、偽りの教師たちの騙しも一つの教え。二つとも教えですが、何が違うのでしょうか。互いに自分たちの教えが正しいと言っています。牧師が言っているメッセージが正しいのか、この世の偉い先生たちの教えが正しいのか。
キリスト教は他の宗教と何がどう違うのでしょうか。イエス様からの福音も教えであり、異端の騙しも教えです。牧師も人間、異端も人間です。二人とも人間ですが、同じく真理のように語っています。二人とも人間ですが、同じく真理のように聞こえます。

違うところは、福音は神のみことばと共にイエス様の人格が私たちの中に入ります。聖書のみ言葉はイエス様の人格とイエス様の力と共に私たちの中に入ります。しかし、人間の教えはただの教えです。人間の教えも感動と力はありますが、根拠がありません。キリスト教は主なるイエス・キリストが私たちの心の中にお入りになる信仰です。信仰告白を通してイエス様を心に受け入れるので、私たちの心の中にお入りになります。

洗礼式はイエス様を心に受け入れますと公に公表する儀式です。結婚式に似ています。
聖餐式はキリストにあって日々歩んで生きる毎月の決心です。イエス・キリストが私たちの毎日を支えています。イエス・キリストが私たちの人生の全てです。パウロはキリストが私たちの人生の中心である事を強調するために以下の単語で表現しています。

6「キリストにあって歩みなさい」:日常用語
7「キリストのうちに根ざしなさい」:植物用語
「キリストのうちに建てられなさい」:建築用語
「キリストのうちに信仰を堅く(立ち)しなさい」:法廷用語
「キリストに感謝しなさい」

「キリストに」、「キリストの」が全部ついています。

信徒たちの頑張りではなく、主なる神による御業です。私達が現在生きていることが主なる神の御業です。自分で生きているよりは主なる神の力によって生かされています。現在は私達もそこまで認識していませんが、最後の日になると私達は告白するでしょう。「今日まで守られ、支えられ、助けられ、導かれ、教えられ、与えられ、祝福され」。全部受身形です。私の人生は全部、主なる神の恵みによる御業です。

2この世の何々が私の中心部まで入らないように注意せよ(8節)
現代はあらゆる情報が公開されているので、簡単には騙されにくい時代です。その反面、私たちの個人情報が公開されやすいので、騙されやすい時代です。ある意味で私達は昔よりも騙されやすい時代を生きています。キリスト者である私達も偽りの人々から騙されないように注意したいです。

私達の周辺には異端の教えが多いです。私達はYouTubeやSNSを通してたくさんの偽りの教えに騙されやすいです。社会的に人気あるインフルエンサーによって強い影響を受けています。流行りの音楽スターや芸能人に影響を受けています。現在、皆様は誰に強い影響を受けていますか。強い影響を受けることは彼らの価値観、考え方、言葉、思想をそのまま私たちの心の奥底に受け入れることです。イエス様がすでに心の中におられるのに、イエス様の教えがすでに心の中にあるのに、新鮮に聞こえるこの世の教えを警戒することも無くどんどん受け入れています。

パウロの時代も同じことがありました。2000年前の昔も、今と同じく、人々は新しい流行りの思想を受け入れた結果、大きな代価を払いました。コロサイ教会に今まで無かった偽りの教えが侵入しました。彼らを注意しなさいとパウロは警告しました。
8節「だれかの捕らわれの身にならないように、注意しなさい」
コロサイ教会員をまるで捕虜のように捕らわれた者とするものが色々ありました。新たな教えは哲学の形で、人間の言い伝えの形で、もろもろの霊の形で入り込みました。当時、哲学と言えばギリシャの哲学です。今も誰もが知っているソクラテス、プラトン、アリストテレスの哲学世界です。福音よりは難しいので、逆に魅力を感じたと思いますが、人は哲学で救われません。社会にはどこにもそれなりの哲学があります。一人の個人でさえ、考え方があり、一人だけの信念があり、哲学があります。しかし、一人の信念は彼自身すら救うことができません。

哲学は人間の言い伝えの形式で過去から未来に伝わります。ギリシャ哲学も、日本の伝統も、ユダヤ人も律法も、各家庭でさえ、先祖からの言い伝えの形式で子孫に伝わります。守るべき大事なものだから、大切なことだから、大事に伝えるでしょう。しかし、いくら権威ある言い伝えも私を罪から救い出すことは出来ません。ユダヤ人の律法でさえ、天の神さまからモーセに直接伝えられた律法でさえ、一人の罪人を救い出すことは出来ませんでした。

日本では「この世のもろもろの霊によるもの」を注意する必要があります。多くの方が霊的なことに関心があります。何年前のことですが、テレビなどを通して、霊的な現象に関する内容が多かったです。パウロの時代も天使崇拝に関心がありました。天使は確かに霊的な存在だし、実際存在しますが、だからと言って何ですか。天使に関する教えと私たちの救いと何の関係がありますか。

イエス様以外に、福音以外の他のものが私たちの心を占領すると捕虜になります。捕虜になることは全部奪われることです。私の考え方、価値観、判断基準が無くなって、停止して、偽りに支配されることです。私の心が支配される表現では足りないので、パウロは「だれかの捕らわれの身」と言いました。「捕らわれの身」という言葉はその時代の誰もが想像できるイメージ言葉です。ローマ軍が戦争から捕虜を連れて凱旋します。戦争捕虜は戦利品です。戦争捕虜は奴隷となる悲惨な運命です。この世の偽りの教えに騙される姿をパウロは戦争捕虜に例えました。

今の時代も異端に騙された人たちはその家族、子どもの世代まで大変な被害を受けています。家庭が崩壊します。イエス様は私達に新しい命をくださり、自由をくださり、喜びと希望をくださいます。しかし、偽りの教えは私たちの心を奪い、魂を奪い、人生そのものを奪います。「だれかの捕らわれの身にならないように、注意し」ましょう。ただ、注意するだけでなく、イエス・キリストをもっと深く知りたいです。

3キリストをもっと深く、信仰をもっと深く知る(9―10節)
この世の偽りに騙されないようにびくびくするのが信仰生活ではありません。異端に注意するだけの信仰はとても消極的な生活です。それより、私達はキリストに満ち満ちた生活をしたいです。キリストに満ち満ちた生活はすべてに満ちた生活です。9節によりますとキリストのうちにこそ、神のすべての性質が宿っています。神の満ち満ちた性質が具体的な形としてイエス様に満ちています。イエス様を知る人は神を知ることと同じです。満ち溢れる生命力が、満ち溢れる富の祝福が、満ち溢れる喜びと幸せが、満ち溢れる愛と恵みがキリストの内にあります。そのキリストがすでに私たちの中におられます。イエス・キリストにあって満ち溢れるすべてのものが私たちのものです。
10「あなた方は、キリストに会って満たされているのです」。
私達はこれから確認したいです。キリストの満ち満ちたものが私の人生において本当に私のものであることを具体的に体験したいです。

4すべての支配と権威のかしらであるキリスト(11節)
キリストはすべての支配と権威のかしらなのに、ユダヤ人は律法に縛られていました。ユダヤ人は律法の象徴である割礼が彼らの生活を支配していました。割礼を受けていない人とは一緒に食事しないとか、異邦人の家には入らないとか、ローマ世界に住みながらどれほど不便な事でしょうか。割礼は人の手によるものに過ぎません。肉の一部分にすぎません。人々の生活において何の利益もありません。割礼や律法は当時、ローマ社会に住んでいるユダヤ人を苦しめるだけでした。

しかし、イエス・キリストは神の子ども達に人の手によらない割礼、肉のからだを脱ぎ捨てて、キリストの割礼をくださいました。キリストが最高の支配、最高の権威なので、イエス様に従えばいかなる縛りからも解放されることです。何と死の恐れからも解放されることです。

コロサイ教会の地域に住んでいた異邦人たちは死の恐れに怯えていました。しかし、イエス様の復活により彼らは死の恐れが消えました。今の時代においてもイエス様は最高の権威なので、死を支配なさるお方です。私達キリスト者はイエス・キリストと共に死からよみがえります。復活の信仰が私達に生きる元気をくださいます。復活の信仰が私達に生きる確信をくださいます。イエス・キリストが私たちの人生のすべてです。