牧師は教会の信徒たちのために受ける苦しみを喜びます。
信徒たちと争うことは辛いですが、信徒たちの信仰が成長することであるなら苦しみも喜びです。
信徒たちの成長は牧会のやりがいを感じるので、苦しみは苦しみではありません。
パウロ先生がそうでした。
パウロはコロサイ信徒たちのために苦しみを受けても喜びでした。
パウロは何のために苦労しながら牧会していたのか考えてみました。
自分は何のために苦労してきたのか、何のために牧会してきたのか考えてみました。
自分は今まで、そして、これから何を目指して頑張るのか自分自身に質問しています。
それでは、皆様は何を目標にして信仰生活を続けていますか。そして、今後、何を目標にして頑張りますか。
パウロの答えはキリストの苦しみの欠けたところを満たすために苦労していると言っています。
キリストの苦しみの欠けたところの意味は難しいですが、今日はこの意味からメッセージを始めさせて頂きます。
1.キリストの苦しみの欠けたところを満たす喜び(24節)
「キリストの苦しみの欠けたところ」という表現は誤解を招きやすいです。
十字架の苦しみだけでは十分ではないので、足りない苦しみをパウロが満たしていると誤解する恐れがあります。
イエス様は十字架の上ですべてを完成なさいました。私達の救いのためにこれ以上の苦しみは要りません。
イエス様の十字架はまだ、不十分だと言ってしまうとそれは異端です。
「キリストの苦しみの欠けたところを満たしている」ことはパウロ自身がイエス様に最初出会ったことと関係していると思います。彼はイエス様を信じる信者たちを迫害していた時、イエス様が現れました。
そして、イエス様は彼にこう言われました。
使徒の働き9:4- 5
「・・サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」
彼が「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」
サウロとパウロは同一人物です。
パウロはイエス様の教会を迫害しましたが、教会はイエス様の体であり、教会の頭はイエス様です。
教会を迫害することはイエス様を迫害することと同じです。イエス様と教会は一つです。
イエス様が教会のために迫害を受けていたので、信徒たちの苦しみは減りました。
同じく、教会を迫害していたサウロは生まれ変わって、パウロになりました。
パウロによって迫害されていた教会は世界に散らばり福音を伝えました。パウロは迫害した人ですが、現在は教会のために代わりに迫害を受ける人です。
パウロがコロサイ教会のために迫害を受けることによって、コロサイ教会の信徒たちの苦しみが減りました。
この原則がキリストの苦しみの欠けたところです。
そして、福音は地域に広がりました。これらの総合的な理由で、パウロは24節「今、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしていま」した。私自身もパウロと同じく、信徒の皆様のために受ける苦しみを喜びとしたいです。パウロはイエス様の使徒なので、愛するコロサイ教会のためにイエス様と同じ働きをしました。
彼は宣教活動で多くの苦しみに会いました。
パウロが福音を宣べ伝えるために受ける苦しみのゆえに、コロサイ信徒たちの苦しみは減りました。
コロサイ教会の信徒たちの苦しみが減るので、パウロは喜びました。
愛する人の重荷を代わりに背負うことで愛する人の負担を減らす喜びを私達も知っています。
その意味で考えると自分自身もパウロと同じ意味で苦労しています。
信徒皆様と一緒に牧会しながら苦労していることを喜んでいます。皆様のために祈る時、皆様の重荷を自分自身も一緒に担っていることです。皆様も同じく誰かのために祈ることは一緒に重荷を背負うことです。これがキリストの苦しみの欠けたところです。そして、私達はそれを喜びます。
私達が現在、この地で受けている苦しみに価値があります。私達はとても価値ある苦しみを受けています。
私達は罪による苦しみは駄目ですが、パウロの決心のように私たちも「キリストの苦しみの欠けたところを満たしている」つもりで忍耐しましょう。
2.苦しみの中、福音を余すところなく、伝える使徒(25-26節)
パウロの人生は不思議です。
主の教会を迫害したのに、彼自身が福音を伝える使徒となりました。
主の教会を迫害したので、彼自身が福音を伝える使徒となりました。
彼が異邦人の使徒となりまして、多くの迫害を受けることで、異邦の地に福音が広がりました。彼がエルサレム教会を苦しめたのに(ので)、コロサイ教会のため苦しみを受けています。
彼がエルサレム教会を迫害したのが、きっかけで福音はユダヤ全土、サマリア、全世界まで広がりました。
今度はコロサイ教会のために苦しみを受けながら、福音を伝えました。
パウロは教会が大嫌いで、教会を滅ぼした時も、彼の弾圧の理由で教会が成長しました。
その後は教会が大好きで、教会員から嫌われて、教会から苦しみを受けても、教会は成長しました。
私達は正直、迫害や苦しみは嫌です。できれば、苦しみは避けたいです。
しかし、パウロを見ると福音が周辺に伝えられるためには苦しみが良い働きをします。
使徒の働き14:22
「・・私達は、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない・・」
ローマ8:17
「私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから・・」
私達は本当に救われたのか、どうかを確かめる一つのバロメーターが試練です。
本当に救われている方は試練があっても黙々と忍耐します。
さすが、パウロみたいに本気で喜ぶことはできないとしても、苦しみのせいでイエス様から離れたりはしません。
信仰が成長すると苦しみを喜ぶようになります。
十字架は試練ですが、十字架を信じる人は試練も受け入れます。
福音は「世々の昔から多くの世代にわたって隠されてきた」奥義です。
今まで隠されていた秘密、宝物がイエス・キリストです。
まさか、十字架によって罪が赦されると誰が想像したでしょうか。
しかも、神ご自身が、人間となって、代わりに死ぬと誰が想像したでしょうか。
今は明らかになったので、当たり前ですが、十字架は奥義です。イエス様の十字架は苦しみです。
パウロの時代、パウロの苦しみのゆえに、コロサイ教会員の苦しみのゆえに、福音は広がりました。
福音を受けた異邦人は神の栄光にあずかる祝福がありました。今の時代は私たちの信仰の苦しみのゆえに福音が広がります。
私たちが受けている信仰の苦しみが福音のために有益である確信が必要です。
パウロは福音を伝えることで人々が神の祝福にあずかることになると確信しました。
3.福音を伝える者、受ける者の祝福と栄光(27節―2章5節)
福音は伝える人も、受ける人も神の祝福をもらいます。
「この奥義が異邦人の間でどれほど栄光に富んだものであるか」当時の人達は身をもって体験しました。
私達も東京教会の中、福音を通して体験したいです。
福音が奥義であることを三つくらいあげましょう。
福音の奥義一つ。
神がくださる祝福は溢れるくらい富んだものです。隠れていた計り知れない神の祝福が満ち溢れるほどあります。
2:3「このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています」
隠されているこの宝を具体的に一つずつ見つけ出したいです。
知恵と知識は抽象的な意味ですが、ここで言っている意味が何か、私たちの人生の中、具体的に頂きたいです。
この宝の種類も多いですが、一度の祝福も溢れています。
父なる神の祝福は2倍、3倍ではありません。基本が30倍、60倍、100倍です。
自分は天のお父様に100倍の祝福を待っています。
奥義の二つ。
「この奥義が異邦人の間で・・栄光に富んだもの」となることです。異邦人が神の民として加わることです。
当時の異邦人はユダヤ人から見れば人間ではありません。
まったく価値の無い人がとても価値のある人に運命が変わることです。
今の時代においても、社会から何の価値の無い人たちが神の子どもとなり、とても重要な人に生まれ変わるのであるなら、それこそ、奥義ではありませんか。
自分自身こそ、何の価値の無い人でしたが、主の僕となりました。
生まれた時も何の価値の無い、神学校卒業した時も何の価値の無いない人でしたが、今は価値ある人となりました。
主に感謝、信徒の皆様に感謝です。
奥義の三つ。
キリストご自身が私たちの中におられることです。
神なる御子が私たちの中におられることは神秘的なことです。
私達は慣れてしまって、神秘性を感じていないかも知れませんが、そう言えば神秘的なことです。
神なるキリストが私たちの中におられることの神秘を改めて考えましょう。
「この奥義が異邦人の間でどれほど栄光に富んだものであるか」私達が実際に体験しましょう。
そして、皆様も福音の奥義を体験した後、確信をもって人々に証ししてくだたい。
28節のように「このキリストを宣べ伝え・・・・すべての人を諭し・・・すべての人を教えて、すべての人を、キリストにあって成熟した者として立たせる」働きを続けましょう。
自分はメッセージを通して、皆様は証しを通して。ある時は聖書学びを通して、ある時は生活の中、起きた奇跡を通して。
あらゆる方法を通してこの地域にイエス様の福音を伝えましょう。
自分自身も苦労はしていますが、牧会はとても価値ある幸せな仕事です。
牧会はとても生きがいのある仕事です。誰かの祝福のために祈る人が祝福されます。
誰かの幸せのために頑張る人が幸せです。主のために生きることが祝福であり、幸せです。
隣人の祝福と幸せのために生きることが祝福であり、幸せです。
私達は今日の箇所からパウロの宣教観、牧会観を見て来ました。自分自身には大きなチャレンジとなりました。
皆様にもチャレンジとなりますように。
